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名古屋高等裁判所 昭和56年(ネ)25号 判決 1981年4月30日

控訴人・附帯控訴人(被告) 学校法人足立学園

被控訴人・附帯被控訴人(原告) 岩本光司

主文

一  本件控訴及び附帯控訴に基づき原判決主文第二ないし第五項を左のとおり変更する。

(一)  控訴人(附帯被控訴人)は被控訴人(附帯控訴人)に対し

1  金九七〇万七、九九八円及び別紙認容未払賃金一覧表の各月欄記載の各金員につき同欄起算日の項記載の日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員

2  昭和五六年一月以降毎月二五日限り一ケ月金一〇万六、三二二円の割合による金員及びこれに対する毎月二六日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員

3  金四〇九万〇、二〇〇円及び昭和四四年度までは別紙請求未払一時金一覧表、昭和四五年度以降は別紙認容未払一時金一覧表の各季欄記載の各金員につき同欄起算日の項記載の日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員

4  昭和五六年一月以降毎年三月三一日限り、金一〇万六、三二二円及びこれに対する毎年四月一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員、毎年七月三一日限り金一七万五、四三一円及びこれに対する毎年八月一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員、毎年一二月二四日限り金二八万〇、六八九円及びこれに対する毎年一二月二五日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員

を各支払え。

(二)  被控訴人(附帯控訴人)のその余の請求を棄却する。

二  控訴人(附帯被控訴人)の前項を除くその余の控訴を棄却する。

三  訴訟費用は第一、二審(附帯控訴費用を含む)を通じ全部控訴人(附帯被控訴人)の負担とする。

四  この判決は第一項(一)に限り仮に執行することができる。

事実

控訴人(附帯被控訴人。以下控訴人という)訴訟代理人は、本件控訴につき「原判決を取消す。被控訴人(附帯控訴人。以下被控訴人という)の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決、附帯控訴につき「附帯控訴を棄却する。附帯控訴費用は被控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

被控訴代理人は、本件控訴につき「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求め、附帯控訴として請求を拡張し、「一、原判決中被控訴人敗訴部分を取消す。二、原判決の主文第二ないし第四項を次のとおり変更する。(一)控訴人は被控訴人に対し金二、〇五三万三、三六三円及び別紙(一)請求未払賃金一覧表の各月欄記載の各金員につき、同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。(二)控訴人は被控訴人に対し七九三万五、九六二円及び別紙(二)請求未払一時金一覧表の各季欄記載の各金員につき同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。(三)控訴人は被控訴人に対し、昭和五六年一月以降毎月二五日限り一ケ月金二八万二、四二三円の割合による金員及びこれに対する毎月二六日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。(四)控訴人は被控訴人に対し昭和五六年以降毎年三月三一日限り、金二六万五、一〇三円及びこれに対する毎年四月一日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員、毎年七月三一日限り金三九万七、六五四円及びこれに対する毎年八月一日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員並びに毎年一二月二四日限り金六三万六、二四七円及びこれに対する毎年一二月二五日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。三、第二審における訴訟費用は控訴人の負担とする。」との判決並びに右第二項につき仮執行の宣言を求めた。

当事者双方の主張、証拠の提出、援用、認否は左記のほか、原判決の事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。(但し原判決七枚目表二行目の「四二年」を「四三年」と、同一〇枚目裏九行目の「同四項」を「同項(四)」と、同一三枚目表五行目、同一四枚目裏一〇行目の各「文章」を「文書」と、同二七枚目裏一〇行目の「編した」を「偏した」と各改める。)

(控訴代理人の主張)

第一  本件控訴について

原判決は左記のとおり事実の認定、判断を誤まつている。

一  原判決理由二、(一)(本件解雇に至る経緯)について。

(一) 同理由(1)において原判決は、被控訴人が昭和三八年三月控訴人学園(以下単に学園ともいう)理事長で学校長でもある足立{門言}励(以下学校長ともいう)と面談した際、同人から給与等について説明をうけたが、学園の特色、ことに宗教行事などについては格別説明を受けなかつたと事実認定し、被控訴人が学園に就職する以前学園の建学の精神を知らなかつたかの如き伏線としているようであるが、これは事実に反する。学園では毎年就職時の面接の際学校長が学園の特色や建学の精神を説明しており、被控訴人との面接の際に全く何の説明もしなかつたということはありえない。また被控訴人の紹介者橋本翠川は同岩田勝を通じて学園の特色を詳しく説明し、また喫茶店で直接被控訴人と会い同様の説明をしている。さらに右岩田勝は被控訴人の義兄で学園の近くに所在する中学校に勤務し、三年生の進学指導をしていたこともあつて学園の特色を知つており、被控訴人にその説明をしたものと推測される。また学校長は教職員も参列する入学式、始業式、終業式、卒業式等のあらゆる機会に建学の精神を説き、また職員会議等においても学園の教育方針を説明し、教職員の協力を求めているのである。これらの事実を総合すれば被控訴人が就職の際、少くとも就職直後には学園の建学の精神及び教育方針を充分承知していたものといわざるをえない。

(二) 同理由(2)の、被控訴人の組合活動は原判決も正しく認定しているとおり「学園には秘密裡のうちにその活動を進めた」ので学園の知る由もないことであるが、職員会議や希望職員会議に関する事実認定には誤りが多い。

(1) 職員会議について

すなわち原判決は、被控訴人が職員会議においてスクールバスの件、文化祭の件、生徒会費の件について積極的に発言したかの如く認定するが、被控訴人は職員会議において殆んど発言していないことは学園側証人の異口同音に証言するところであり、スクールバスの件や生徒会費の件はそもそも職員会議で取りあげられたことはない。文化祭の件は前から問題となつていたことで、被控訴人の主張に端を発して原判決認定の如く取扱いが変更されるに至つたものではなく、これを決議した職員会議において被控訴人は何ら発言していない。なおスクールバスの件は林事務局長が水谷運転手とバレー部員に対し、スクールバスは同局長ないし事務局の承認をうけて運行するよう注意しただけで、北村教諭に対し、無断使用したとして憤激したようなことはない。生徒会費の件はその半額が職員の研修費という名目で学園が勝手に使用しているのではないかというものがあり、その後その半額はクラブ活動の指導費用に充当されていることが明らかになり解決している問題で、職員会議に持ち出されたことはない。

(2) 希望職員会議について

希望職員会議が原判決認定の如き構成員をもつて、その認定の如き問題につき話合い、その結果を認定の如き方法で学校長に報告していたことは原判決認定のとおりであるが、「被控訴人が勤務するようになつてからは一度もたれただけで、その後は開かれていなかつた」(原判決)ことはなく、少くとも毎年一回は開かれていた。従つて「大久保晴史から大柳らに働きかけて同年三月二五日希望職員会議を開催することに成功した」との認定も誤まつており、大柳はいつもと同じように希望職員会議の開催手続をとつたのみで大久保から特別の働きかけがあつたわけでもない。同会議の席上、「みんなの会がまとめたという要望書が案として提出され、同会議一同の要望として採択されたことは原判決認定のとおりであるが、同会議に出席した大部分の「みんなの会」に無関係な先生は右要望書案が同会でまとめられたものとは夢にも思わなかつたことである。けだし大部分の先生は「みんなの会」の存在すら当時知る由もなかつたからである。また原判決は「翌二六日被控訴人らは大柳、玉井とともに学校長に右要望書を手交しに赴いた」と、いかにも被控訴人が先頭に立つて学校長に要望書を手交したかの如く誤解されやすい事実を認定するが、被控訴人は最後列に立つていたのみで、学校長に目立つような行動はしていない。さらに原判決は「その際学校長は『いろいろ要望をいうなら辞めたい』と発言したが、同日の運営委員会でも右要望書について一応の回答がなされ」というがこれまた事実誤認である。学校長は右要望書に対し、「検討しておく」、「相談しておく」と答えただけで右認定の如き発言はしていないし、同日運営委員会が開かれた事実もない。また同月二八日の特別職員会議は毎年新学期に備えて開催される定例のもので、右要望書に対し回答するような場所ではなかつた。そして新年度よりガリ版、ゴム印等の備品が一部揃えられたのは、例年新学期に当り備品の一部を整備するための一環として行われたもので右要望書に特別答えたものではない。

(3) かくの如く被控訴人は職員会議でも希望職員会議でも発言は少く、特に目をひく存在でなかつたのであるが、原判決は被控訴人が学園から嫌悪されてきたものであることを主張するための被控訴人の虚偽の供述を措信した結果右のような事実誤認に陥入つたものと考えられるのである。被控訴人は「みんなの会」ないし「C分会」では中心的役割を果してきたかもしれないが、被控訴人の自認する如く非公然の分会であつたため、学園に対しては自己が中心人物であることを感付かれないよう極力自制していたものであり、学園としては本件審理においてはじめて、被控訴人がかげで活動していたことを知つたのである。

(三) 同理由(3)において原判決の認定するところは全部が誤りではないにしても、一種の予断と偏見をもつて、学園がいかにも暗い雰囲気にあつたかの如く誤解させる認定が多く承服できない。

(1) 「懲罰も(中略)しばしば」行われたというが、いかなる事実をもつて「しばしば」というのか理解しがたい。

(2) 持物検査は常に生徒側の代表が立会つて行われており、昭和四〇年一月三〇日の件は事実無根である。

(3) 生徒会費の一部を職員の研修費にあてた事実はない。前述のように生徒会費の半額をクラブ活動の指導費用にあてていたのみである。

(4) 「P・T・Aから(中略)寄付を受けたりすることがあつた」とは何らかの意図を含んだ認定である。

(5) 「学園の中枢部をその一族で占め、教員の中にも学校長の家族や教え子などが多く含まれており」と認定したうえ「学校長と右のような関係にない教員は毎年四、五名ほど公立学校へ転校したり、退職したりしていく実情であつた」といかにも学校長と右のような関係にある教員は永く勤め、そうでない教員は短期間に追い出されていくような悪意に満ちた認定をしている。学園には女子の先生が多く、退職するそれらの女子の先生の大部分の退職理由は結婚のためであり、学校長との関係の有無にかかわりないことである。

(6) 「教員の労働条件は相当劣悪なものであつた」というが、大方の私立学校は学園と大差がなく、「教員免許のない科目を担当せざるをえない教員もあり」とか「一般には事務職員が行うべき事務まで教員が校務分掌上担当させられることもあり」とか判示する部分もこれ亦私立学校では普通のことで、免許の点についてはそのために仮免許の手続があり、校務分掌上の担当も当然のことである。原判決がこのような普通の事柄を特別に認定すること自体不可解である。

(7) 「学校長が女子の教員に水をかけた」とか、「林事務局長らが市会議員選挙に立候補した」との事実は本件の判断に不必要なことであるが、「昭和三八年に林事務局長が立候補した際、職員朝礼で同人を応援しようという話が出た」ことはない。

(8) 原判決は、被控訴人らは「以上のような学園の教育方針、組織、教員の労働条件などに種々の問題点があると考え、『みんなの会』などで、積極的に討議を進めた」とするが、「みんなの会」などの被控訴人らの討議は学園の知らないところで秘かに行われていたことであり、本件を判断するに当り資料となることがらではない。

(四) 同理由(4)について

(1) 昭和四〇年一一月被控訴人が学校長から転任勧告を受けた事実はない、被控訴人は昭和三八年四月一日から学園に勤務し、同年度は取りあげていうほどの問題はなかつたが、昭和三九年度になつてからは与えられた仕事を忠実に実行せず、上長からの注意を素直に聞入れることなく、こと毎に反抗的態度に出て他の教職員とも融和しないきらいがあつたので、昭和四〇年二月学校長が被控訴人に転任方勧告したことはある。その際被控訴人は就任早々で学園のことがよくわからず、抵抗を感じたこともあつて迷惑をかけたが今後は心を改めて他の教職員とも融和し、学園の教育方針に従い一生懸命努力するからこのまま学園に勤務させて貰いたい旨願つたので、学園は被控訴人の右言を信じ、被控訴人が引続き学園に勤務することを承認したのである。

(2) 原判決は「被控訴人が学園に対し滝高校へ転校する意思がないことを明確に表明した後に林事務局長が被控訴人に転校をすすめた」、「昭和四二年一月学校長自らが被控訴人に対し転任勧告をした」、「その頃北村に対しても学園から転任勧告がなされた」、「同年二月一六日学校長が被控訴人と北村に面談した」、「被控訴人は被控訴人と北村に対する転任勧告の不当性を訴えるビラを有志の名で学園の教員に配付した」などの事実を認定するが、これらはいずれも事実無根である。原判決が右のような認定をしたのは甲第五号証の被控訴人のメモ、甲第六号証のビラと被控訴人の供述を全面的に措信したことによるものであろうが、甲第五号証は当時作成されたものか疑わしく、甲第六号証のビラが学園の教員に配付された事実もなく、これ亦後日作成された疑いがあり、被控訴人の供述も措信できないものである。北村は原判決認定の体育の授業の件で抗議し、林事務局長との間で口論になつた際来年度はやめさせて貰うと自から申出ていたもので、学園が転任勧告をした事実はない。

(3) 大柳は被控訴人に対し滝高校への転任を助言したことはあるが、原判決判示の如き「みんなの会」などの活動の中止を示唆したことはない。ただ被控訴人に対し改善すべき点があれば学校内の組織を通してやるべきではないかと助言しただけである。

(4) 原判決は「被控訴人らは生徒に対しても学園内で被控訴人と北村に対する転任勧告という問題が持上つている旨説明した」と正しく認定しているが、これを裏付ける原審での日比野(旧姓高城)先生の証言によると同教諭や被告人ら少数の先生のかかる言動が生徒の署名運動、助命嘆願運動、三月七日と一六日の生徒集会へとつながつた経過は明白で、乙第一〇号証の一、二の署名運動の書面が生徒の自発的行為とは到底考えられない。

(五) 同理由(5)の認定のうち、三月二〇日と二四日の丹菊会長の発言に関する部分はいずれも間違いである。三月二〇日はP・T・Aの緊急常任委員会を翌日に開くに先立つて、被控訴人に生徒の署名運動に関与していないかなどその弁解を聞くため、短時間面談したが被控訴人は何ら確たる返答をしなかつた。その際丹菊会長は原判決認定の如き発言はしていない。また二四日の常任委員会の席上には被控訴人と北村が出席した事実はなく、ただ別室において丹菊会長外二名と面談したのであるが、席上同会長が被控訴人らに原判決認定の如き組合脱退を説得したことはない。

(六) 同理由(6)の認定はすべて事実無根である。学園としては分会の公然化は寝耳に水で単一労組がいかなる組合であるか、その団交申入れに対してもどのように対応してよいか全くわからず、学園内は生徒も教職員も騒然とした状態に陥入つたなかに分会は矢次早に三月八日付分会ニユース一号、同月一〇日付同二号を学園内に配付し、学内外で宣伝活動を開始したため、教員、生徒に対し一層の危機感をあおることとなつた。こうした中で学園の秩序回復のため学校長が三月一一日職員朝礼の場で私学単一労組ができたことに触れて職員の協力を求め、また副学園長である足立てる子が女子の教員に対し学園内の混乱が一刻も早くおさまり生徒が落着いて勉学できるよう協力を求めたのも当然のことである。また学園は職員が一致協力して建学の精神の高揚に努める旨の誓約書の提出を求めたが、その中でいう外部の団体とは誓約書全体の趣旨からも建学の精神を否定するような団体をさすもので、労働組合を念頭においたものでないことは一見明白である。原判決の認定はこれらを不当労働行為評価の基礎としたものであり、到底承服しがたい。

(七) 同理由(7)について

(1) 原判決は、草むしりや運動場の整備を雑役と評価するが、学園においてはそれらは教科の一つとなつており、学校長はじめ教員、生徒も折にふれて行つてきたことである。

(2) 被控訴人が学園の措置を人権侵害であるとして名古屋法務局一宮支局へ申告し、学園が調査を受けたことはあるが、そのことで説示を受けた事実はない。

(3) 被控訴人の三男の健康保険の件で足立修が原判決認定の如き発言をしたことはなく、被控訴人において学園の係に対し、扶養家族の申請の手続をとればすむことである。

二  原判決理由二、(二)(学園主張の本件解雇の理由ないし事情)について

(一) 私学共済組合事務について(同理由(1))

原判決は昭和四〇年から事務職員において右事務を処理せざるをえなくなつた被控訴人の事務怠慢には目をつぶり、被控訴人の弁解供述を一方的に採用して判示のように被控訴人を庇護するもので公正な判断とは考えられない。

(二) 温交会の件(同理由(2))

原判決は帳簿を発見して引継いだと判示するが後任の小塚は被控訴人から引継を受けていないと証言している。それに城崎温泉の旅行にあたり学校長から預かつた現金の収支が明らかになつていないことは原判示のとおりで、ことほどさように被控訴人は事務怠慢である。

(三) 職員会議議事録の件(同理由(3))

原判決は被控訴人が議事録を約半年間空白にしたことを認めながら、当時このことについて学園から催促や注意を受けたことはないというが、事実誤認である。被控訴人は再三にわたる催促や注意にも拘らず実行しなかつたのである。

(四) 生徒指導要録の件(同理由(4))

原判決は「被控訴人のほかにも少数ではあるが提出が遅れる教員もあつた」と被控訴人を弁護しているが、四月末頃になつて提出したのは被控訴人一人で、そのため原判決認定と異なり次期担任の生徒指導に支障を生じ、その記載も不正確整理不充分であつたため学園から注意を受けているのである。

(五) 学内新聞「まこと」の件(同理由(5))

同新聞は学校長とは全く関係なく、生徒会新聞部が当時の担当牧野女教諭の指導のもとに発行したのであり、学校長の指示で執筆者の氏名を入れて記事を掲載したとの原判決の認定は、被控訴人の弁解のみを一方的に採用した全く誤まつたものである。学校長の許可などと無縁であるから学園から注意を受けたことがないのも当然である。ベトナム問題が当時すぐれて政治問題であつたことは被控訴人自身も認めるところ、公正中立であるべき教師が生徒が読むことが当然予定される新聞に一方に偏した政治主張を掲載するのは小塚教諭一人がいやみをいつて済む問題ではなかつた。果して右新聞記事は発行直後に大問題となり、そのため外部配付が中止された経緯があるが、原判決がこの点を説示しないのは不公平である。

(六) 呼リン紛失の件(同理由(6))

原判決は「まもなく呼リンは発見された」と判示するがこのような証拠はない。学園において再購入したのである。何より紛失当時責任者である被控訴人がこれを探そうともしなかつた無責任な態度に関係者一同は驚かされたのであり、この件で学園から注意されたか否かが問題の焦点ではない。原判決は格別な注意がなかつたとか末梢的問題であるなどというが、被控訴人のその後の態度などからするとこの事件は決して情状の軽いものではない。

(七) 図書貸出の件(同理由(7))

この点に関する原判決の認定も被控訴人の弁解を並べるだけの不充分なものである。生徒の範たるべき教師が、正規の貸出し手続をとらず、公の物を約一年間私物化していたことは強く非難すべきである。

(八) 自習時間について(同理由(8))

原判決は「自習は教育の放棄に等しく(中略)非難されなければならない」といいながら最後は被控訴人の弁解を入れて「生徒に課題を与えるなど工夫していたこと、就職指導のためや他クラスとの進度を調整するための場合もあつたことなどを考慮すると重大な怠慢とまで評価できない」という。しかし右弁解のような事実はなく、被控訴人自身昭和四一年度になつて自習が格別多くなつたことを反省しながらその後も改まらなかつたのであり、かかる被控訴人の行為はまさに教育の放棄に等しく教師として不適格であるといわざるをえない。就職指導のため自習の多いクラスが他のクラスより進度が早いことは到底考えられず、進度調整のための自習というのも肯けない。被控訴人が登校しながら自習とした時間を何をしていたかいまだに明らかでない。

(九) 中学校訪問の件(同理由(9))

被控訴人は昭和四一年度生徒募集の担当校として宮田中学など四校を割当てられ、同年五月中訪問するように学園から命じられたのに、再三の督促を無視して、これを実行しなかつた。原判決は「原告に非があることは明らかである」と正当に判示する一方、そのために特に支障は生じなかつたとか、特に学園から注意を受けることはなかつたというが、いずれも失当である。中学訪問後の出身中学校の先生との生活指導のための連絡打合せ、出身中学の在学生への同先生の激励などの学園にも生徒にも必須の行事が行えず支障をきたしたほか学園の信用も失われ迷惑した。勿論被控訴人には再三注意を与えたが前述のように被控訴人はこれを無視したのである。原判決は被控訴人が行く必要がないというのは中学校の先生を接待する必要がないという意味であると解釈し、そのことと私学協会からの自粛要請を結びつけて読めるような判示のしかたをするが、私学協会からの自粛要請は私学全体に対してのものであり、学園が特別に行き過ぎであるとして注意されたことは一度もない。学園の中学校教員に対する応待はごく常識的範囲内にとどまつていて何ら問題の余地のないものである。

(一〇) 学校長叙勲の際の募金の件(同理由(10))

この点について原判決は被控訴人が曖昧な態度であつたため幹事が迷惑したとの認定をしなかつたのは不当である。

(一一) パンフレツト配付とその記載内容について(同理由(11))

この点についての原判決の認定には誤りはないが、分会ニユース八号の「生徒達は教師をあまり信頼しておらず、その原因は学園の教育方針にある」との記載及び分会ニユース七号の「学園の運営の様々な不明朗な点」としてあげる一〇項目の真偽が問題であり、右分会ニユースは一見学園の建設的な意見の如く見えるがその実は虚偽の事実を前提として学園を中傷誹謗する以外の何ものでもない。これらの点については後の建学の精神について詳述する。

(一二) 丹菊名義の父兄宛P・T・A文書窃取の件(同理由(12))

原判決は、被控訴人の弁解を容れ、「(内容の)重大さから事務職員が捨てた原紙を秘かに拾得し」たと認定するが、使用済の原紙が判読可能なわけがないから、それを拾得する前に文書の内容を知つているとすれば、文書を盗みだしたと判示するのが正当である。そうだとすれば教師としてあるべからざる行為であり、不適格者と断ぜざるをえない。

(一三) 「新任の先生方へ」のパンフレツト配付の件(同理由(13))

この点について新任の先生方は迷惑がつており、特に原判決も認定するように机の中に秘かに入れたことを憤慨したため被控訴人は学園から戒告処分を受けたのである。

(一四) 運動場の草とり等整備の件(同理由(14))

さきにも述べたとおり運動場の草とり、小石拾いは学園においては教科の一つとして、学校長はじめ教員、生徒も折にふれて行つてきたことで、林事務局長が被控訴人にこれを命じて拒否され憤慨するのは当然である。雨の日に命じたようなことはない。

(一五) 学校長に対する抗議の件(同理由(15))

これによつて学校長の事務が著しく妨害され、また職員室で勤務中の教員の事務遂行上も著しい支障をきたしたのであるが、このことを正当に判示すべきである。その情状は重く解雇事由として充分である。

(一六) 被控訴人の遅刻、早退、欠勤の件(同理由(16))

被控訴人は昭和四二年度遅刻二五回、早退一二回、無断外出数回、欠席五回(但し九月一日より一〇月七日までの長期欠勤を除く)と出勤常ならず、再三注意しても反省の色がなかつたので昭和四三年二月一九日戒告処分にしたが、同月二三日までに提出すべき始末書も提出せず、再度同年三月四日までに提出するよう勧告してもこれに応じなかつたのである。原判決は被控訴人のみ午前八時出勤を指示されたため遅刻が多いとか早退は骨髄炎の治療のためのときもあつたとして被控訴人を庇護するが、遅刻時間の内容を見れば当らないし、かりに被控訴人ひとり午前八時出勤を命ぜられたとしても遅刻してよいということにはならない。遅刻、早退、欠勤は病気等の正当な理由のある場合を除くほかやはり教育活動の放棄というべく、前記の戒告後の被控訴人の反省の色のないところをも考えるとその情状は重いものというべきである。

(一七) 昭和四二年三月一六日の生徒集会の件(同理由(17))

同年三月七日の卒業式の後にも同様の集会があつたことは原判決の認定するところであるが、かかる集会は学園としてかつて経験したことのない事態であり、被控訴人の解雇問題が表面化してからの一連の動きとして生徒の署名運動と深いつながりがあると思われる。

(一八) アンケートの実施について

被控訴人は昭和四一年二月頃学校長に無断で二クラス位の生徒から学校、授業、先生に関する不平不満等についてアンケートをとつたが、これは職員服務規定に違反している。被控訴人は右は本多教諭が中心となつてしたことであるとして責任を他に転嫁しようとするが、現に被控訴人が学園を去つたあと被控訴人の使用していた机の中から生徒自身の回答が記入されたアンケート用紙(乙第八七号証の一、二)が大量に発見されたことから、これを認めざるをえなくなつたのである。しかもそのアンケートの内容は生徒に対し、先生が信頼できるか、できないかの二者択一を迫る形式のもので、学園、教師を信頼して登校してくる生徒に対し不信感を抱かせるに充分なものというべきである。なお右アンケートが生徒会及び生徒会指導の上席小塚教諭、担当牧野教諭のいずれも通さず、何の相談もなく、被控訴人独自の判断で実施された点も重大なルール違反といわなければならない。

三  建学の精神について

(一) 建学の精神は私立学校の存立の基礎をなすもので、私学の存在価値を高め、その独自性を担保する最も重要なものとしてあらゆる教育活動の根源に存在する。そしてこの建学の精神を根源とする日常の教育活動を通じて私学独自の校風、伝統が生まれる。

(二) 学園は現理事長足立{門言}励が昭和二年三月「宗教的情操豊かな真の女性の育成」を建学の精神として創設したもので、ここから「正、明、和、信」の学園校訓が生まれた。具体的実践目標として「きまりよく、親切、丁寧に」、「はい、すみません、ありがとう、させていただきます」とすらすらいえる人という言葉を掲げ、これを日常機会あるごとに実行するよう指導してきたほか、さらに建学の精神を具体化して教育の場で実践するための真人教育指導要項を設け、生徒に対しこれに定められたおよそ一〇項目の経験活動をさせることにより、建学の精神を体得させるよう努力してきた。

学園の教職員はその服務規定第二条に「教職員は協力一致各自の責任を重んじ、誠意をもつて職務に精励し、本学の建学の精神の昂揚に努めなければならない」と規定しているように右建学の精神を遵守し、その発展昂揚に努めるべき職務上の義務を負つているのであり、被控訴人も学園の教師として勤務する以上右の義務を負つていることは自明の理で、建学の精神を否定するような言動をとることの許されないのは当然である。

(三) ところで原判決は右の建学の精神につき原判決六一枚目表五行目から同裏七行目までのように説いて、一読した限り建学の精神について正当に評価したかの如く思われるが、し細に検討すると甚だ不充分で納得しがたい。

まず原判決は建学の精神はそれ自体抽象的なものであり、それが学校の運営を通じてはじめて具体化されること、この具体化された建学の精神を否定するような行動をとることは学校運営を阻害するものとして許されないというのであるが、右論調によると建学の精神は学校運営を通じて「具体化」されていない限り全く意味を持たないように解されるところに問題がある。このように解すると「具体化」された建学の精神を否定するような行動をとらない以上、建学の精神に反する行動といえどもすべて許されるという結論にならざるをえないからである。しかし建学の精神そのものが抽象的なものである以上、学校運営において到底そのすべてを「具体化」できるものではなく、しかも建学の精神に反したり、あるいはそれを否定するような言動としてはあらゆる形態が予想されるので、それが学校運営を阻害するに至ることもまた明らかである。教員や生徒のこのような言動を正当な言論活動の範囲内のものとして容認するのは私学の独自性と存在意義を否定することにほかならない。従つて建学の精神は「具体化」されていなくても、これに反し、またはこれを否定するような言動は学校運営を阻害するものとして許されないと考えるべきである。

次に原判決は、「建学の精神に対する考え方や建学の精神の実践方法につき批判を加えることは、それが虚偽の事実を前提としたり、学校の運営について建設的な視点を失わない限り正当な言論活動の範囲に属するものとして許される」という。そこで「建学の精神に対する考え方を批判する」というのを学園の場合を例に、その建学の精神である「宗教的情操豊かな女性の育成」にあてはめて考えると、その「考え方」を批判するとは、例えば「近代女性を育成することこそが大切であつて、近代女性たるためには宗教的情操というようなものは不必要である」という議論を展開するに至るのであつて、つまるところ建学の精神そのものの批判を意味することにならざるをえない。そうだとすれば、そのような批判は、虚偽の事実を前提としない限りとか、建設的な視点を失わない限りなどという条件をつける以前にもはや既に建学の精神そのものを否定することになるのであつて、このような議論はこれまた私学の独自性と存在意義を否定するものとして、学外のものはいざ知らず、学内の教員や生徒には到底許されないものというべきである。結局原判決が建学の精神に対する「考え方」につき批判を加えることを肯認しようとするのはひつきよう私学の独自性を否定するに至るものであつて明らかに誤まつた結論である。

次にまた原判決は建学の精神の「実践方法」につき批判が許されるというが、これまた学園を例に考えると、学園には建学の精神の実践方法の一つとして「合掌」があるところ、これを批判するというのであるから、例えば「合掌は宗教的情操豊かな女性の育成ということと無関係であり、無意味であるから廃止すべきである」というような議論をすることになるものであり、つまるところ「具体化」された建学の精神に対する批判を意味するものである。学園の教員がこのような議論を持出したとすれば学園内は大混乱に陥入ることになるのは必至である。そして原判決の論調によれば、このような「具体化」された建学の精神を否定するような「行動」は許されないが、それに対する「批判」は虚偽の事実を前提としたり、学校の運営について建設的な視点を失わない限り、正当な言論活動の範囲内に属し、許されるとするものである。しかし前述のように具体化されていると否とを問わず、建学の精神に反し、あるいはこれを否定するような「言動」は私立学校の独自性と存在意義を否定することとなるものであつて本来的に許されないものというべきである。そして「具体化」された建学の精神に対して批判が許される場合には、それは建学の精神に反し、あるいはこれを否定するようなものであつてはならないから、建学の精神を肯定したうえにおいて、その具体化すなわち実践方法に対して批判するという限度で許されるものというべきである(その限度内の批判であれば学校運営を阻害することとなつてもやむをえないところである)。従つて原判決の論調は単に「学校の運営について建設的な視点を失わない限り」というのではなく、「建学の精神に基づく建設的な視点に立つ批判である限り」というように改められるべきである。

以上のとおり原判決の「建学の精神」に対する考え方は皮相的であり、甚だ不充分であつて控訴人学園としては到底納得し難い。

(四) 建学の精神、教育方針を否定する言動及び行動

被控訴人は学園に就職する際前述(一、(一))のとおり、学園の建学の精神を熟知しており、かつこれを昂揚すべく努めるべき義務を負つているにも拘らず公然とこれを否定し、これを学園内外に宣伝したものであり、学園の教師として不適任である。本件解雇の最大の理由はこの点にある。被控訴人の右行為を端的に立証するものとして、被控訴人が学園の内外、執務時間の内外を問わず配布した一連のビラがあるが、これには学園の建学の精神、教育方針を否定し、これを攻撃誹謗する言辞が綿々と書き連ねてある。

(1) 分会ニユース七号(甲第九号証)について

右分会ニユースにおいて被控訴人は一〇項目にわたつて虚構の事実を指摘し、学園が不明朗な行為をしているが如く主張しているが、それらはいずれも事実無根のものである。以下個々に述べる。

1 学園の教職員の賃金

学園の教職員の賃金は私立学校の尾張部の平均的なところにあり、決して低賃金ではない。しかるに被控訴人は何らの根拠も示さず、ひどい低賃金といい、理事長が私腹をこやし、学園の財産を驚くべきテンポで増大させているとの全くのデマを書いている。

2 学園の教員の授業持時間

専任の教員で昭和四二年度週平均一八ないし一九時間であることは充分な根拠と正確な計算に基づいていえるのに、被控訴人はこれを二三ないし二四時間とあて推量のでたらめをいうのである。

3 生徒積立金

学園が生徒積立金の利息をピンハネしたことはなく、修学旅行に同行する先生の旅費は当時旅行斡旋業者が負担していて、生徒積立金によつて賄われたことはない。

4 生徒会費

生徒会費の予算、決算は職員会議で決定し、了承されており、ピンハネなどの不明朗なことは一切ない。

5 短大増設の認可基準

学園が短大を増設するに際し、その認可基準に合格するため不正をしたことも一切ない。図書の不足、高校の教室の流用、奥田のグランドを使用中に見せかけたなどという事実は全部被控訴人の悪意による虚構である。文部省の蔵書検査でも無差別抽出の図書の全てに学園の蔵書印が押されていたことは勿論で、右図書が借り物であるなどということは全くない。

6 学園の乗用車の使用

被控訴人は学園の乗用車を私的に使用したというが、公的使用との区別もなく、全く根拠がない。

7 スクールバスの料金

学園のスクールバスは当時国府宮駅と学園間を往復し、維持費の大半は学園が負担し、生徒には路線バスの定期券運賃の半額程度を負担させていたにすぎず、高すぎるということはない。スクールバスの運行については毎年赤字で、学園が利益を得たことはない。

8 小使いのおばさんの労働条件

学園が小使いのおばさんを酷使したことはない。当時の小使いのおばさんとは水野鈴江のことであるが同人は被控訴人が指摘する如く一日一四時間の勤務をしたことはなく、却つて八時間にも満たないのであり、学園に勤務したことに感謝こそすれ、不満など全くなかつたのである。

9 学校長が故意に教員に水をかけたことなど一度もない。毎朝学校長が植木に散水する水が偶々通りかかつた高城教諭にかかつたことはあるが、これは全くの事故である。

10 学園が二人の先生をゴマかすようにしてやめさせたことなど一度もない。被控訴人の本件解雇は正当であり、北村教諭の退職は自からの意思によるもので、その意思を固めてから約一年を経過して退職したのであつて、学園が同人に不当な圧力をかけたことなどない。

(2) 分会ニユース八号(甲第一〇号証)について

被控訴人は右分会ニユースにおいて真向から学園の建学の精神、教育方針を否定し、これを誹謗している。すなわち「学校の教育方針が教師に対する生徒達の不信を作つている」と題したうえ、学園の教育方針を「宗教的情操教育の名のもとに封建的女性の育成が行われている」とか、「はい、ありがとうございます、……させて頂きます、どうもすみません、とどんな場合にもすらすらいえる女性になることが女性の幸福の道だと説き、従属的な批判力のない女性、自主的にものを考えることの出来ない女性を作ろうとしています。その為厳しい規則を作り、躾教育ということでも理不尽な処罰を加えています」と述べ、さらには「学校方針に忠実である教師ほど生徒の信頼はうすいように思えます。」などと述べているのであつて、これらが学園の建学の精神、教育方針、実践目標を正解しないのはもとよりであるが、それ以上に学園の建学の精神を真向うから否定し、これを中傷誹謗する以外の何ものでもないのであつて学園の教員として不適格であることはあまりにも明白である。原判決はこれをしても「学園の運営に対する批判を通して学園における教育の質の向上を願望する意図」のものというのであるが、到底承服しうるものではない。

(3) その他の言動について

被控訴人は学園の建学の精神を具体化した教育実践活動として学園の定めたきまりや慣習、様々の行事について、たとえば登下校時の校門出入の際の「礼」をしなかつたり、生徒との昼食の時間に遅れて食事の際に唱和するべき言葉を唱えなかつたり、また朝礼前の読経を実践しないなど、具体的事実を挙げれば枚挙にいとまのないほど建学の精神にそわない言動があるが、学園が本件解雇の理由ないし事情とした各事実もすべてその具体的なあらわれである。

四  P・T・Aの要望について

本件解雇の理由にはP・T・Aの被控訴人に子弟の教育をさせて貰いたくないとの要望があつたことも挙げられる。父兄は学園とその教師を信頼して子弟の教育を委ねるのであるから、教師に対する信頼は最も重要であり、この信頼を得られぬ教師は失格であるといわざるをえない。しかしてP・T・Aがこのような要望をなすに至つたのは、昭和四二年三月一九日被控訴人らの解雇問題が新聞に報じられ、生徒の署名運動が開始されていることを知つたP・T・Aが被控訴人と面談し、或いは常任委員会を開いて事情を聴取したり、父兄からの手紙(乙第八号証)、生徒の書いた文書(乙第一〇号証の一、二)などの資料をもとに真剣に討論した結果、被控訴人が右文書の記載を教示し署名運動を扇動したものとの結論に達したことによるものである。原判決はP・T・Aの要望の「理由ないし動機となつているのは原告の組合活動、思想傾向にあつたというほかはなく」といい、また後述のとおり被控訴人が右署名運動を扇動したことは間違いないのに「原告が扇動したとのことは単なる疑いの域を出ず」と判断し、いずれも甚だしい事実誤認を犯している。P・T・Aの討論の主題は専ら被控訴人が生徒を扇動し署名運動をやらせたということで、右認定の如く、被控訴人の組合活動、思想傾向を理由ないし動機にしたものでは断じてない。右P・T・Aの要望を本件解雇の理由とすることは何ら不当なものではない。

五  パンフレツトの無断配布

学園の教職員服務規定は一宮労働基準監督署に正式に受理され、職員に周知された昭和四二年三月から効力を生ずることは原判決も正当に判示するところであるが、被控訴人の分会ニユースなどの配布行為が同規定三条一〇号、三三条六号に違反することは明らかである。被控訴人の右配布行為により学園内が騒然とし、配布の態様としても勤務時間内に、学園内外に配布したこと、再三の注意を無視して敢行されたことは情状が重く、生徒と学園の信頼関係を破壊し、学園の業務を阻害したものとして充分解雇理由たりうる。仮りに右配布行為が労働組合活動であつたとしても、一般に事業場は当然に使用者の管理に属するし、就業時間内は労働者は労務に服する義務を負うものであるから、労働者が事業場内で労働組合活動をするには使用者の承認を要するというべきところ、被控訴人の右配布行為は学園の教育の場としての施設管理権を侵す違法なもので、到底原判決認定の如き正当な組合活動とはいえない。

六  解雇反対署名運動の扇動

昭和四二年三月七日の卒業式当日と同月一六日午後学園の生徒約一〇〇名が被控訴人らの不当解雇撤回を要求するためと思われる集会を開いていた事実があるところ、これらの生徒の動きが署名運動へと発展していつた。この経過について当時みんなの会の会員で単一労組の稲沢女子分会員でもあつた日比野忍は、生徒が署名運動をしようという雰囲気があつたことを知つていること、授業中に生徒にそういうこと(被控訴人の転任勧告のこと)を話したすぐあとに子供達は寄つていろいろ話をしていたこと、被控訴人も卒業式の日に解雇問題について話したことなど原審証人として興味ある証言をしているが、前記卒業式当日の生徒集会はこれと符合している。また被控訴人提出のみんなの会の当時の打合せ記録という甲第七四号証の一、二によつても、当時みんなの会の教師グループが署名運動を企図していたことが窺われる。そして前出乙第一〇号証の二の生徒作成文書の裏面記載の言葉は明らかに生徒自身のものではなく、さらに同号証の一、二は筆跡は異なるがその内容は同一のものであることからして生徒達でない誰かが生徒達の意思を統一して運動を指揮していたことが推認できるがその中心は被控訴人らである。その証拠に当時生徒達の署名運動を進めていたリーダーの前原寿枝(旧姓土屋)は北村教諭の下宿にいき、被控訴人同席のうえで署名運動の話を聞いたと明確に述べている(乙第一〇一号証)し、他に武田文子(旧姓中村)、浅井日出子(旧姓森)も同趣旨のことを明言している(乙第五六号証の一ないし三、同第一〇四号証、第一〇五号証)。さらに被控訴人自身の提出した書証のうちにも「生徒達の口から色々聞いておられることと思います」(甲第五二号証「みなさんへのお願い」欄)、「生徒達に組合というものを部分的に説明し」、「生徒と結びつくことは必要なことだと考えています」(甲第五五号証二枚目)、「生徒たちもこれに(被控訴人らの活動)に呼応するかのように解雇の真相調査活動、署名、生徒集会など」の運動を行つた(甲第四六号証)、「私達が学校内でとつた行動にも問題があつたかもしれません」(甲第五三号証)など被控訴人が生徒達に積極的に働きかけていつた経過が明らかに読みとれるのである。

学園は教育の場であり、生徒はすべて理性的にも感情的にも不安定な時期にある女子であるのに、これらの生徒に右の如き教唆、扇動行為をなしたことは、その心情に刺激的な動揺を与え、教育に対する不信、不安を醸すことになり、これによつて学園の教育機能を著しく阻害したものといわざるをえない。右を理由とする本件解雇は正当なものというべきである。

七  不当労働行為に該当する事由の不存在

(一) 学園が被控訴人の組合加入を知つたのは組合公然化の前日である昭和四二年三月七日であり、原判決が「学園が稲沢女子分会公然化以前からの原告の組合活動を察知していたことを前認定の事実から認めることは困難である」とするのは正当であるが、「大柳は昭和四一年三月に『みんなの会』に呼ばれたことがあり、被告学園の転任勧告が続いていた頃学校外でのサークルをやめるよう原告に要請していたのであり、被告学園も同人から原告のサークル活動を聞かされていたと推認するに難くない。」と認定するのは以下のとおり誤まつている。すなわち前にも述べた要望書(甲第一一号証)の原案は「みんなの会」のメンバーの一部によつてまとめられたもののようであるが、昭和四一年三月二〇日すぎ頃の夜北村教諭の下宿で開かれていた若手教員の集まりに呼ばれた大柳は、その集まりが「みんなの会」の集まりであることを全く知らされていなかつたし、またそれを知る由もなかつたのである。「みんなの会」は学園に知られたくない雰囲気のもとに開かれていたし大柳が教務主任の地位にあつた以上、同人にその存在を知られないようにしたであろうことは容易に推認される。前述のように大柳は同夜若手教員の集まりに出席し、職員会議等の学校の組織を活用して話合うべきことを教員の先輩としての立場から説いたのであつて、サークル活動をやめるように被控訴人に要請した事実もない。

かくして学園は被控訴人の組合加入の事実を昭和四二年三月七日まで全く知らなかつたのであるから、それ以前の被控訴人の言動は仮にそれが組合活動としてなされているものであつても、これについて不当労働行為の責任の生ずる余地はないものというべきである。

なお原判決は被控訴人の分会公然化前の言動として(1)職員会議における発言、(2)希望職員会議を開催し、要望書を提出したことに関し、被控訴人が積極的に参加したこと、(3)学校新聞「まこと」に掲載されたベトナム問題に関する記事、(4)中学校訪問に関する非協力的態度等をとりあげて、これが学園の感情を害することになつたであろうと推認し、これらの事柄を通じて学園が、被控訴人を好ましくないものと考えて、学園より排除しようとし、滝高校転任の話に乗じて被控訴人を放逐するため執拗に転任勧告を続けたものと判示するが、前記各事由については既にそれぞれの箇所で詳述した(一、(二)、(2)、二、(五)、(九)、)とおりであり、右判示は到底承服できない。学園としては詳細に本件解雇事由ないし事情を主張、立証しているとおり被控訴人の言動が学園の建学の精神を否定し、学校運営を阻害するものとして把えているのであつて、滝高校の転任勧告の問題も単に口実を設けて行なつた排除行為として評価さるべきものではない。

(二) 分会公然化後の経緯につき、原判決は学園が単一労組の団交申入れに対してとつた態度に問題があるように判示するが、この点は既に、一、(六)において詳述したとおりであつて学校長、足立てる子、学園のとつた措置はいずれも学園の混乱を収拾し、秩序を回復するための措置であつたにすぎず、組合嫌忌の態度と考えるのは早計である。さらに原判決はP・T・A常任委員会における林事務局長の説明が被控訴人の組合活動について触れておるというが、同局長としてはP・T・A常任委員会に対し署名運動の記事が掲載されるに至るまでの事実経過を説明するに当り被控訴人の配布した分会ニユースを回覧に供したにすぎず、ことさら被控訴人の組合活動等について発言した事実はない。またP・T・Aの要望とその経過については既に一、(五)、四において述べたとおりであつて、要するに原判決の如くP・T・Aが被控訴人を教壇に立たせてほしくないとする理由は被控訴人の組合活動を念頭に置いたというべきものではなく、生徒の署名運動に対処し、これを扇動したのが被控訴人であるとの判断のもとに要望を採択して学園に申入れたのにすぎず、被控訴人の組合活動とは無関係である。学園の考えとP・T・Aの要望とは結論的に一致したため、特別職員会議(編成会議)の議を経て、被控訴人は昭和四二年度から学級担任、教科担任、校務分掌を外されたのである。右会議には被控訴人も出席していたのであり、学園がP・T・Aの要望に藉口し、被控訴人の組合加入、組合活動を嫌悪してかかる措置に及んだ(原判示)ものではなく、独自の立場から被控訴人の言動が学園の建学の精神を否定し、学校運営を阻害するものと判断したからである。

(三) このことに関連して見逃がせないのは当時の被控訴人あるいは分会の認識を示す、被控訴人の作成した昭和四二年四月二一日付「新任の先生方へ」というビラ(甲第三三号証)の記載である。同ビラは同年三月八日に分会が公然化され、学園が被控訴人をやめさせようとしている真の理由を新任の先生方に訴えようとしたものであるにもかかわらず、そこには「学校側が私をやめさせようとしたほんとうの理由は私達が話し合いの為にみんなの会というサークルを作り、設備の悪い点、時間数が多すぎる点、教職員に対して人権無視の取扱いをしている点などについて検討したり、又教育のあり方について話し合いや学習をしたり、教職員の親睦を計る為に忘年会などを行つて来たことが学校の気にさわり、しかも大変おそれていたからです」との記載があるのみで、原判決が判示するような、組合加入組合活動をしたことがやめさせられる真の理由であるとの指摘はどこにも見当らない。被控訴人又は分会としては被控訴人らの行つたサークル活動こそが解雇の真の理由であるとの認識に立つていたことがあまりにも明白である。

(四) 原判決は学園が昭和四二年四月以降被控訴人に対してとつた措置を不利益取扱いであると判示するが、これまた一方的な見方といわざるをえない。学園は新学期を迎えてようやく落着きを取戻し、当時既に被控訴人には学園を辞めて貰いたい希望を持つていたので、同年四月三日付内容証明郵便をもつて被控訴人に対し正式に退職を勧告した(乙第一九号証)。右退職勧告の理由となつたのは本件解雇の理由とほぼ同一であり右勧告当時既に解雇の主たる理由が存在していたのである。被控訴人は四月以降学級担任等もなくなつたため第二職員室に移つていたが、退職勧告にも応じないばかりか、第一職員室に出入りし、新任教員の机の中に秘かにパンフレツトを配付したり、学校長の席に来て、なぜ授業を持たせない、早く団交をやれなどと強硬に迫り、時には大声をあげ、抗議をくり返し、学校長の職務を妨害した。そのため学園は対策上やむをえず、被控訴人の出勤簿を廊下に出すに至つたものである。また学園の服務規定によれば退勤時刻は午後四時三〇分と定められているが、他の教員は通常退勤時刻を大巾にすぎて帰つているのに、被控訴人のみは退勤時刻になるとさつさと帰るため、学園としても被控訴人の勤務態度がそのようであるならば出勤時刻も服務規定どおり午前八時とするよう命じたものである。さらに原判決は草むしり等の雑役は教育活動と無関係である旨判示するが、前述のとおり学園においては草むしりをはじめとする運動場の整備等の勤労は建学の精神の実践活動の一つとして教員も生徒も熱心にやつているものである。

八  結論

以上述べたとおり本件解雇はその解雇事由が存在し且つ不当労働行為に該当する事由もなく、いずれの点よりするも有効、適法であるのに、原判決は事実を誤認し、判断を誤まつたものであるから、これを取消し、被控訴人の請求を棄却すべきである。

第二  附帯控訴について

被控訴人の附帯控訴による請求拡張の理由に対して次のとおり答弁する。

一  右理由一、月給の主張について。

同1の事実は認める(但し昭和四一年度に支給した基本給は正確には金二万五、〇〇〇円であり、その他に担任手当二、〇〇〇円、諸手当一、〇〇〇円及び通勤手当一率一、六〇〇円で以上合計で二万九、六〇〇円となるのである)。

同2の事実のうち被控訴人の原審準備書面に控訴人引用の記載があること、控訴人が被控訴人に対し被控訴人主張のとおりの賃金額(被控訴人の別紙(一)請求未払賃金一覧表の<1>、<2>記載の控除金額)を昭和四三年三月までに支払済みであることは認めるが、その余は否認する。

被控訴人は昭和四二年四月分からの賃金の支払請求をするが、控訴人は本件解雇時の昭和四三年三月二二日までは被控訴人に対しそれぞれ毎月所定時期までに賃金を支払済みであり、被控訴人も異議なく受領してきたものであり、それ以上の請求権は存しない。

また被控訴人の根拠とする人事院統計は何ら具体的な賃金請求権を発生させるに由なきものであり、控訴人が右統計に準拠して被控訴人に対し、昇給、一時金支給の意思表示をした事実はなく、被控訴人の主張は独断以外の何ものでもない。

同3の事実は全部否認する(但し引用の林証人の証言は「新任の先生は公立の初任給に準じて採用」していたこと、「新任以外につきましても、だいたい私立学校の尾張部の平均的なところにあつた」旨述べている限度でのみ認める)。

なお昭和四三年三月当時控訴人には賃金規定が存在している。

控訴人が被控訴人に対し定時の昇給を約したことは全くないし、現実にも毎年二、〇〇〇円の昇給をしていない。

二  右理由二、一時金の主張について。

同1の事実は否認する。

控訴人は一時金名目で金員を支給していないし、将来にわたり一時金を支払う旨の意思表示をしたこともない。尤も給与以外に控訴人が被控訴人に賞与として毎年七月下旬及び一二月下旬に支払つた金員はあるが、これは被控訴人主張の基本給に対する掛け率で算定されるものではない。

また昭和四一年度までに、年度末に被控訴人主張のごとき一時金を支払つたことはなく、それ以後の年度末賞与は控訴人の負担と計算によるものではなくP・T・Aの負担と計算において支払われたものである。

同2の事実は否認する。

被控訴人主張の人事院統計から具体的な金額の賞与請求権が発生するに由ないことは前記賃金の場合と同一である。

同3の事実は否認する。

賞与等の算出については単に年令により決定されるべきものではなく、学歴、勤続年数、役職勤務態度等の諸要素を考慮して具体的に決定されるものである。

三  右理由三、学園の賃金支払義務について。

同項の事実は全部否認する。

同1につき、控訴人は昭和四二年度において被控訴人に対し、何らの不利益取扱をしたことはなく、昭和四三年三月二二日なした本件解雇も何ら不当労働行為に該当するものでないから、同日以降被控訴人が未払賃金及び一時金請求権を取得するいわれはない。

同2につき、将来の請求は現に具体的賃金請求権を発生させるべき事実関係が成立しており、且つ債務者が将来にわたり適時に履行しないことが推知される場合に訴えの利益があるとされるところ、被控訴人は控訴人と雇傭関係があつた当時においても欠勤が多く、到底将来にわたつて適時の労務提供を期待できない状態にあるから、労務提供と少くとも同時履行の関係にたつ賃金支払債務について将来の給付を求めうる法律関係にはないというべきである。

四  よつて右理由四、結論の本件各賃金請求を争う。

五  控訴人の主張

(一) 賃金、一時金請求権の不存在

控訴人が被控訴人に対し本件解雇時までの賃金及び昭和四一年一二月末迄の賞与をいずれも支払済みであることは前述のとおりである。そして昭和四三年三月二二日になされた本件解雇は何ら違法、無効のものでなく、右同日以降被控訴人は控訴人の従業員たる地位を失つたものであるから、被控訴人が控訴人に対し右同日以降賃金、一時金の請求権を取得することはありえない。よつて被控訴人の主張は失当である。

(二) 仮定的主張

仮りに被控訴人が控訴人の従業員たる地位を有するとしても、次に述べるとおり、被控訴人はその主張にかかるような賃金及び一時金請求権を有することはない。

1 昇給額、賞与額の未確定

賃金の昇給額或いは一時金の額は雇傭契約の内容をなすものであるから、これが確定するためには当然に使用者と従業員との合意ないし、明示又は黙示の使用者の意思表示が必要である。ところで控訴人は被控訴人に対し、同人主張のごとき昇給額及び一時金各支給の意思表示をなしたことがないのであるから被控訴人主張の具体的請求権が発生する由もないのである。

被控訴人は昇給、一時金の根拠として人事院統計を引用するが、控訴人が被控訴人に対し、右統計に基づき昇給、一時金支給を意思表示したことなど全くないから、被控訴人の主張は失当である。

被控訴人は基本給のほか通勤手当、担任手当をも請求しているが、通勤手当は現実に労務提供のため学園に通勤した者に対してのみ支給されるものであるところ、被控訴人は本件解雇以後学園に通勤していないから通勤手当を請求できる筋合いでなく、また担任手当は現実に学級を担任した者に対してのみ支給されるべきものであるところ、被控訴人の請求の起算日である昭和四二年四月以降被控訴人は学級担任を持つていないのであるから担任手当を請求できる筋合でもない。

かくして被控訴人が控訴人に請求しうるとしてもその金額は被控訴人が昭和四三年三月まで現実に受取つていた基本給金二万五、五〇〇円のみである(被控訴人は担任手当を基本給に入れて算定しているが誤りである)。

2 消滅時効

賃金、一時金はその履行期日から二年の経過によつて消滅時効にかかるから、附帯控訴による請求拡張分のうち、被控訴人が本件附帯控訴を提起した日である昭和五六年一月二八日の二年前である昭和五四年一月二七日以前の本件賃金、一時金の請求権はすべて時効によつて消滅している。よつて控訴人は昭和五六年二月一七日の当審第二八回口頭弁論期日において陳述した同日付準備書面をもつて右消滅時効を援用する。

被控訴人の附帯控訴による拡張請求が、仮りに債務不履行又は不法行為による損害賠償を請求原因としていると解しても、債務不履行による損害賠償請求権の消滅時効期間は本来の請求権と同一に定まると解されているので賃金請求権の時効消滅の場合と同様であり、控訴人は前記準備書面によりこの消滅時効を援用する。また不法行為を原因としているとすればその時効期間は三年で、本件附帯控訴は提起の日である昭和五六年一月二八日の三年前である昭和五三年一月二七日以前の請求拡張分たる本件賃金、一時金の請求権はすべて時効によつて消滅しているから、控訴人は前記準備書面によつて右消滅時効を援用する。

よつて被控訴人の昭和五四年一月二七日又は昭和五三年一月二七日以前の請求拡張分たる本件給付請求権はすべて時効消滅し、控訴人に支払義務はない。

3 被控訴人の請求債権から控除される金額

被控訴人は原判決の仮執行宣言に基づき、昭和五一年五月三一日名古屋地方裁判所一宮支部において債権差押並びに転付命令を得(同裁判所昭和五一年(ル)第二六号、同年(ヲ)第三九号)、控訴人名義の預金口座から金六三三万一、五八八円也の弁済を受けたから右金額は被控訴人の請求から当然控除されるべきである。すなわち原判決の主文第二項及び第三項については全額、第四項については昭和五一年五月末日までの分は既に支払済みであるので、仮りに控訴人に支払義務があるとしても、賃金、賞与等について支払うべき日は同年六月一日以降となるのである。

(被控訴代理人の主張)

第一本件控訴について

控訴人学園の当審における主張はすべて争う。被控訴人(以下単に岩本ともいう)に対する本件解雇は労組法七条一号に該当する不当労働行為であり無効である。これを認めた原判決の認定、判断は正当であり、控訴人主張の如き事実誤認や判断の誤りは存しない。ただし、原判決理由二(二)(3)認定の職員会議議事録を空白にしたのは、その直前、直後の筆跡が本多教諭のものであるから、同教諭の責任であつて被控訴人の責任ではない。また、同理由(4)の生徒指導要録、生徒健康診断票の提出期限は毎年三月三一日であり、これを毎年三月二五日とする認定は誤りである。

一  学園が岩本を本件解雇した経緯

(一) 学園が岩本を解雇したのは、同人の組合加入、組合活動そのものを嫌悪した学園の反組合的意図よりなされたものであり、学園が本件解雇事由として主張する事実は、解雇後の口実にすぎず解雇事由に該当しないことは明らかである。

(1) 昭和四二年三月八日愛知私学単一労働組合(以下単一労組という)稲沢女子分会として岩本及び北村が学園において、公然化するまでの岩本の組合等の活動経過は左の通りである。

岩本は学園に就職した当時より私学における教職員の待遇改善の必要を感じそのために労働組合が必要であると考えていた。そこで右単一労組が準備の段階である昭和三八年一〇月二日愛知県私立学校教職員組合協議会に積極的に個人加入し、昭和三九年一一月一五日単一労組として結成後、昭和四一年、四二年と単一労組本部執行委員に選出されるような積極的な組合運動の活動家であつた。

岩本は学園内においても、職員に右単一労組への加入を勧誘する活動をし、昭和三八年には田畑、今枝両名の加入をえて、学園に右単一労組C分会の発足に成功した。

同人等は学園側の組合活動に対する反感を考え学園には秘密のうちに活動をなして来た。翌三九年三月岩本を除く前記二名が退職したが、その後熊沢、北村、松本などの加入を得て昭和四〇年六月に再度分会を確立することが出来た。

(2) 岩本は右組織の継続的な確立を図るため、同人を中心に分会員以外にも参加者を得て、学園に察知されないよう参加者の下宿で、学園内における生徒の教育、生活指導の向上を目指して学習、研究、討議をなし、その成果を昭和四一年より「みんなの会」の名称で機関紙として発行しその紙上に具体的に学校組織、学校経営、学習内容、生徒に対するアンケート結果の分析等をして発表し(甲第二四号証)、更に職場新聞「いね」(甲第四号証)も発行するなどの活動を積重ねた。

(3) 岩本は右のような教職員相互の活動を続ける一方、この活動の中で討議された職員の待遇改善の件、学校備品設備等に関し、昭和四一年三月二五日希望職員会議一同による要望書(甲第一一号証)として学校側に提出するように働きかけ翌二六日には学校側との交渉に参加して要望事項の実現のため活動した。

右交渉の結果、備品を充実する点など一部の改善はなされたが、職員の待遇改善はなされず、学校長は逆にかかる要望を求めるならば校長をやめたいなどと後向の態度をとる有様であつた。

岩本は右の活動のかたわらこれらの内容をガリ版印刷にして職員に衆知せしめることもした(甲第一二号証)。

(4) かかる岩本の学園内における教育面、職員待遇改善面における活動は、学校側においても認識されていた。

そして校長、事務局長等主要ポストを一族で占めているという同族経営形態をとり、近代的労使関係、近代的学校運営に関して消極的な学校側にとつては、それを改善していこうとする岩本はなにかと好ましくない人物であつた。

(二) 岩本が前記のような活動をなすに至つた背景として、学園の職員待遇の悪条件や生徒の教育指導面についての諸々の不満があり、それを学園側が改善する姿勢に欠けている点に問題が存した。

(1) 昭和三九年当時学校長は生徒の質を問題にせず経営基盤の確立のため全部を受け入れる方針をとつていたため(乙第三七号証八丁表裏足立照、大柳発言)必然的に生徒の質の低下を来し、補導される生徒も出て昭和四〇年一月二九日の職員会議でこれが問題となり(乙第三七号証六丁裏、八丁表、一〇丁裏、一一丁及至一三丁)退学、停学処分がしばしば出されるようになつた。

(2) 学園側は昭和四〇年一月三〇日生徒の人権を無視し抜打的に生徒の立会なしに持物検査を実施した。それがため二年生生徒の一部がこれに反撥抗議し集団署名、学校を集団欠席し同盟休校にまで発展して中日新聞にも報道された。ちなみにこれがため二月三日に臨時職員会議まで開かれ、右の行動をとった一部生徒に対する停学処分すら行われた(乙第三七号証一一丁裏乃至一四丁表)。

(3) 又学園の教職員、事務職員が生徒数に比較して少なく「教員の労働条件が劣悪であり、それが具体的に先生の授業持時間に表われ、公立では一週の各先生の授業時間が一八時間であるのに、学園においては林事務局長は二二時間以上持つよう提案した。かかる学園側の無理な加重な勤務体制が、先生の補導時間の不足、それによる前記のような補導問題の発生、実験助手の不足による実験不能、授業内容の低下、生活指導やホームルーム、クラブ活動の不活発を招いた。学園は更に教科に関し免許を持たない岩本に仮免許をすら取得させることなく、法律上禁止されている無資格のまま授業をさせて教職員の不足を補う手段すらとつていた。かかる状態のため教職員の間で職員会議では教育問題に取組むうえで問題とされるべきは環境職場の整備改善であるとの認識が深まりつつあり、従前陰で不平不満を言つていたのを右の職員会議で活撥に堂々と意見を述べるべきであるという声が出て来た(乙第三七号証七丁裏乃至九丁表)。

(三) 控訴人側はかかる事実を認定した原審判決を悪意に満ちた事実誤認である旨非難するが、前記の通り控訴人提出の証拠によつてすら原審の通りの事実認定は出来るのであり、控訴人の非難は全く理由がなく失当である。

そして右諸事実を総合すれば岩本のみならず本件訴訟において学園側の証人となつた大柳、玉井等においても昭和四〇年当時、学園における教員の劣悪な労働条件について、学園側に改善を求めていたのであつてかかる事実よりみても学園内に如何に労働、教育の各面における改善の必要性が山積していたか明らかである。

二  岩本には学園の主張するような解雇事由は全く存しない。

(一) 昭和四〇年一一月学校長より岩本になされた転任勧告は実質は解雇予告である。

(1) 右勧告当時岩本は前記の如く学園内において積極的な活動をなし原判決が認定した如く同僚の北村のスクールバス使用の件、文化祭期間中の女子教員、生徒の宿直廃止、生徒会費の使途の明確化、学園側に対する希望職員会議開催の成功等の行動をしていた。

(2) 学園側は岩本のかかる行動を心よく思わず、なんとか学園より同人を排除しようと考え同年一一月末頃「学校と考え方が合わない」との抽象的理由により退職勧告をするに至つたのが真相である。学園側は右勧告の事実は認め、(但しその時期を昭和四〇年二月というが、これは同年の一一月が正しい)その理由として岩本が仕事に忠実でないこと、上司に対する反抗的な態度、他の職員と融和しないこと等を挙げるが、同人は前記学園内における活動並びに人望からみてかかる事実は全くなかつた。のみならず、学園側の本訴訟になつてからの主張をみるならば仮にかかる事実が存するならば解雇又は退職を求めているはずであるのにかかる話は一度もなかつた。また後記滝高校への転任問題が持上つた際僧侶である学校長がその主張のような事由が存するような人物を他校に転任させることは、全くそれを受け入れる学校に迷惑をかけることになるのにそれを承知でするということになり、正に無責任極りない話である。常識的にみてもそんなことをすることはあり得ない。

(3) 右の転校勧告が岩本の立場を考えてなされたものではなく、又学園側の主張するような事由によるものでもなく、岩本の待遇教育改善等を求める行動が学園側にとつて都合が悪いからに他ならないことは学校長の二男足立修先生の「経営上即ち学校管理上困るので、転校してもらいたい」旨の発言(甲第六号証経過第三項)がその事実を如実に物語つている。

(4) しかして右退職勧告は同年一二月の希望職員会議や翌年一月から開始された「みんなの会」の活動を通じて教職員間に問題となり、学園は昭和四一年二月一日右退職勧告を撤回せざるをえなかつた。

(二) 学園の岩本に対する昭和四二年三月末日を期限とする解雇予告は、同人の学園内における教職員の待遇及び生徒の教育面の改善のための積極的発言やそのための活動、単一労組稲沢分会結成の公然化を嫌悪し同人を排除する意図をもつてなされたものである。

(1) 学園側は前記の通り分会公然化前既に同人を排除しようとして一旦なした退職勧告を撤回せざるをえなかつたのであるが、たまたま昭和四一年四月二〇日私立高等学校校長会の席上滝学園の校長より岩本を譲つてもらいたい旨の申出を受けたのを幸いにこれを口実として、同年一一月頃より再び岩本に対し、同人が転校する意思もなく従つてそのような意思を一度も表明したことがないのにこれを無視し、執ように転校をせまり昭和四二年に入ると岩本の同年度の後任は決めてあり、この考えは変更するつもりはない旨意思表明するまでに至つた。

学園はまた岩本と同時に単一労組稲沢分会員を名乗る北村に対しても同人が公立高校に移りたい希望があることを口実に執ように転校をせまつていた。

学園の右岩本、北村に対する転校要求以外に他の学園教員に対しそのような要求をしたことはいまだかつて一度もない。

かかる学園の態度をみてもその意図は組合活動をする岩本、北村の排除にあつたことは明白である。

(2) 更に学園側の労働組合活動排除の意図は左の各事実によつても裏付けられる。

まず単一労組稲沢分会が公然化した直後の三月一〇日学校長は、職員朝礼の場で組合活動反対の協力を職員に求め、同校長の妻てる子は女子職員を集め同様の説得をした上全職員に右協力の証として「私は協力一致、自己の責任を重じ、誠意をもつて職務に精励し、学園の建学の精神の高揚に努め、理事長、学校長の教育方針を遵守し、外部の団体に無断で加入しないことを誓います」という労働組合に入らないための誓約書の提出を求めた(甲第一四号証)。

右の一事をとつてみても学園の態度は憲法上の労働者の団結権を侵害する重大な行為であることは明らかである。

更に学園のP・T・A常任委員会は、四月一九日中日新聞に岩本、北村の解雇、生徒の署名運動が報道されるや、学園側の事情のみを聴取し岩本、北村に事実を確認することなく右生徒の解任反対署名が岩本等の扇動によるものであると誤認し、P・T・A会長丹菊をして学園の意図を体し、組合をやめれば学園との解雇の問題を巧く解決してやる旨の組合脱退の説得さえなした。

(3) 岩本が右の組合脱退の要求に応じないとみるや学園は、岩本にそれ迄免許を持たない教科の授業迄させて来たのにかかわらず、又同人の授業内容、方法、生徒指導等に欠陥がなく、特段、クラス担任、教科担任、校務分掌等の職務をはずす必要事由もないのに教員本来の生徒に教えるという職務を全く排除する行為に出た上に、従前の職員室から常勤の教員のいない部屋に同人を隔離し、草むしりや運動場の整備という雑役を主たる職務として命じ、岩本の出勤簿のみを廊下に出したり、学園運動会参加拒否、岩本の三男の扶養家族手続申請拒否等の差別待遇を公然と他の職員に対するみせしめのためになした。

学園は右雑役が学校長はじめ教員生徒も時々行つている旨主張しているが、岩本に対するような教員本来の職務をはずし雑役が主な労務であるような命じ方はそれ迄一度もなされたことはなく、誰の目にも差別であることは明らかである。

又学園は当審になつても依然として右差別と関連し名古屋法務局一宮支局より人権侵害であるとして説示を受けたことを否認しているが、右の事実は右法務局よりの回答で明確になつている。

かように学園側は客観的に明確になつていて否認が不可能な事実についても自己に都合の悪い事に関しては徹底的に否認をするという態度よりみてもその主張に信憑性がない。

又三男の扶養家族手続についても現実に申請をなしたのに現在まで全く手続をなされていないという事実が学園側の意識的拒否という差別の事実を明確に物語つている。

(三) 学園側の列挙する解雇事由は全く存在しない。

(1) 学園側が本件訴訟になつて主張する解雇事由は、かかる事実が存したという昭和四二年三月以前に解雇事由として指摘されたことは全くない。

まず学園側は昭和四二年三月、岩本を含め単一労組より解雇事由の説明を求められたのに本訴において主張のような事由を言つたことはなく、単に「学園よりの退職を願つた方がよろしいとおすすめ致して参つたのであります」(甲第一号証)と述べているにすぎない。当時の組合の受け取り方も学園は組合活動家の排除を意図したものとしか考えられなかつたのであり、その前提として本訴において主張するような解雇事由を指摘されたことは全くなかつた(甲第七、八、九、一〇号証)。

(2) 学園側ですら主観的にも本訴のような解雇事由があるとは全く考えていなかつた。当時岩本にやめて貰いたい理由は校風に合わない。建学の精神に反する点である旨の林事務局長の中日新聞談話(甲第一五号証)の中でやめるにあたつて本人に困らないよう考慮するつもりであると迄言つている事実がある。右の談話の中には全く解雇事由の存在すら感じられず仮に解雇であればかかる発言は考えられずこのことが学園側の昭和四二年三月当時の気持を訴訟という意識なしに正確に表わしている。このことは右の昭和四二年三月当時生徒が学校長に岩本をやめさせる事情を尋ねたところ、一方的にやめさせることはなく、納得の上でやめて貰う旨の発言をなしている事実(乙第一〇号証の一、二)又は原審学園側証人水野俊法の証言(昭和四六年一〇月一一日一三丁、同一一月二二日一六丁)にビラ、署名が困るので他に解雇事由はなかつたこと、同丹菊証言(昭和四六年二月一七日)に建学の精神に合わないということだけで他の事由はない旨明言し、学園側の事実上の代表者林事務局長が解雇に相当する事由はなかつた(昭和四八年一〇月一日二一丁)、そして岩本が学園の許可を受けずに組合に加入したこと、このことが職務規定に違反する(昭和四九年二月一八日一五丁、二五丁)旨の証言等より明確に裏付けられている。

(3) 学園は昭和四二年三月単一労組稲沢分会公然化後岩本の排除の意図のもとに、解雇事由としてこじつけるために事ある毎に内容証明郵便を送りつけているが、右時期以前には岩本は口頭、書面の注意戒告は一度も受けた事実はない。

かかる事実よりみて、学園側の解雇事由と称するものが全く存在しなかつたことそしてそれが本訴になつてからのこじつけであることが判る。

又学園が昭和四二年三月以降の解雇事由として列挙するような事実は存しない。

(4) 岩本は学園が当審主張二、(一)ないし(一八)で主張するような解雇事由は否認するが、仮に一部にそのような事実が存するとしてもそれは解雇事由には該当しない。これらの点については原判決が正当に判断しているとおりである。

三  建学の精神について学園は、建学の精神のあり方に対する原判決の説示につき、次のように論難する。

(一) 「原判決の論調によれば、建学の精神は学校運営を通じて「具体化」されていない限り、全く意味を持たないもののように解されるところに問題がある。このように解すると「具的化」された建学の精神を否定するような行動をとらない以上、建学の「精神」に反する言動といえどもすべて許されるという結論とならざるを得ない。」、と。

(1) しかし、原判決の論調に、学園所論のように解されるよすがはみられない。

原判決は、本件においてもそうであるように、建学の精神は極めて抽象的なものであり、学校の運営を通じて具体化されるものであるが、その具体化の基盤となる「建学の精神」は、私学の存在価値を高め、その独自性を担保するものとして一定の役割を果している旨を述べているものと理解される。

被控訴人も、「進学の精神に基づく私立学校の独自性が一定の範囲において尊重されるべきことは認められる。しかし、その具体的なあらわれ方のなかで、私学経営者の立場からみて、建学の精神に反する「考え」を持つ者は解雇できるというような解雇の基準にされたり、また、労働組合運動を抑圧する原理として作用することは許されない。」と主張し、原判決とその基本的認識において異るところはない。

ところが、学園は、「原告の組合加入、組合活動そのものを嫌悪し、原告の組合加入、組合活動自体が「建学の精神」と相容れないものととらえ、「建学の精神」を楯にとり原告から級担任、教科担任、校務分掌分担の一切を奪い、その教育活動を不能ならしめたのであつて、被告学園の右措置は原告の正当な組合活動の故をもつてなされたもので労組法七条一号に該当する不当労働行為というべきである。」(原判決)

(2) かくして、原判決の趣旨に「具体化」されていない限り「建学の精神」としての意義を認めない、というような意味合いが含まれているものでもないことは明らかである。

(二) 次いで、学園は、原判決の「建学の精神に対する考え方や建学の精神の実践方法につき批判を加えることは、それが虚偽の事実を前提としたり、学校の運営について建設的な視点を失わない限り、正当な言論活動の範囲に属するものとして許される」との判示に対し、「原判決が建学の精神に対する考え方につき批判を加えることを肯認しようとした点は、ひつきよう私学の独自性を否定するに至るものであつて明らかに誤つた結論である。」と論難する。しかし、この論難もまた当をえていない。すなわち学園は、右論難を導き出すのに、その例として、学園の建学の精神である「宗教的情操豊かな女性の育成」に対する批判は、「例えば、近代女性を育成することこそが大切であつて近代女性たるためには宗教的情操というようなものは不必要である。という議論を展開するのであつて、つまるところ建学の精神そのものを批判することにならざるをえないはずである。」、だから、「既に建学の精神そのものを否定するが如き議論を展開することになるものである。」と述べるのであるが、本件において、被控訴人は、「近代女性たるために宗教的情操というようなものは不必要である。」との趣旨の言動を示したことなど全くないことは言うまでもない。また、建学の精神、すなわち「宗教的情操豊かな女性の育成」というものを批判するとしても、学園の右にあげる例のように、このような建学の精神の存在することを認めない、これを否定し去るべきだとの意味を唯一とするものであろうはずがない。本来、「宗教的情操豊かな」という内容ないし趣旨自体一義的に特定し、或いは明示しうるものではなく、ましてや、それの具体的実践方法についてはなおさらである。それについては、いくつかの考え方(解釈教義)、方法がありうるので、そのような考え方、方法をめぐつての肯否、あるいは優劣が検討されよう。こういう有様も、一つの批判ではなかろうか。原判決も、このような理解に立つての立論であると思われる。

(三) 次いで、学園は、原判決には「このような具体化された建学の精神を否定するような「行動」は許されないが、それに対する批判は、虚偽の事実を前提としたり、学校の運営について建設的な視点を失わない限り正当な言論活動の範囲内に属し許されるとする」ところの「論調」があるが、この「論調」は、およそ具体化された建学の精神に対する「批判」が許される場合は、建学の精神を肯定したうえにおいてその具体化すなわち実践方法に対し批判するという限度で許されるものであるから、「建学の精神にもとづく建設的な視点に立つ批判である限り」というように改められるべきである、旨を述べる。

つまり、学園が、こゝで述べたいことは、「建学の精神」それ自体に対しては、それが抽象的であると具体化されたものであるとを問わず、一言一指だにふれてはならぬ、ただ、それの具体的実践方法に対してのみ批判が許される、その旨を強調したいのだと理解されよう。

そして、その理由として、学園は、そうでなければ「学園内は大混乱に陥入ることは必至である」からと考えているようである。

しかしながら、こゝでの学園の主張も、当をえたものとなつていない。

(1) 本件においては、およそ被控訴人は、学園の言いたい「建学の精神」につき、抽象的なものとしても、具体化されたものとしても、建学の精神それ自体を否定する「言動」を示したことはない。

岩本らは、「学園側こそ建学の精神を守れ」との視点にたつて、学園は、建学の精神である「正明和信」の理念を軽んじている旨を指摘していたのであるに過ぎない。ちなみに、岩本らは、「学校の教育方針に従つて教育活動を行えば、生徒との信頼関係が築かれ、教育効果もあげられるような学校に一日も早くしたいと願つています。」(甲一〇号証)と述べていたのである(なお、甲九号証参照)。

とすれば、岩本らの行動は、「建学の精神にもとづく建設的な視点に立つ批判」の限度内のものであると理解するのは容易であろう。

(2) 学園は、具体化された建学の精神に対する批判の例として、「合掌は、宗教的情操豊かな女性の育成ということと無関係であり無意味であるから廃止すべきである」との「議論」をあげるようである。

しかし、岩本らは、「合掌」それ自体の廃止を唱えたことは全くない。

そもそも、「合掌」が宗教的情操豊かな女性の育成という建学の精神自体の具体化であるのか、よつて、「合掌」に対するある見解の表明が、「具体化された建学の精神に対する批判を意味するもので」あり、許されないというのか、それとも、右趣旨の建学の精神の「具体化すなわち実践方法に対して批判する」ものであり、その「限度で許されるものというべき」であつて、「その限度内の批判であれば学校運営を阻害することとなつても、やむをえないところである」と承知されるものであるのか、その何れであるのか一義的に明らかであろうか。

以上の次第で、学園の建学の精神に関する原判決の説示に対する非難こそ、「皮相的であり、甚だ不十分であつて」、納得し難いものである。

(四)(1) 学園の、「被控訴人の言動」についての指摘中、分会ニユースの内容(甲九、一〇号証)に言及する点は、これを形式的且つヒステリツクにとらえてのことと思われるが、いずれも根拠のある事実ばかりであり、むしろかかる学園の不明朗な運営や教育のあり方こそ建学の精神にそわないものであることを指摘して批判したものである。

しかしてこれは、原判決の認定したようにその「語調」を全体的にみれば、「被告学園の運営に対する批判を通して被告学園における教育の質の向上を願望する意図のもとに記されたと認められるのであつて、もとより正当な批判の域を出るものではなく、これをとらえ建学の精神に反するものとして解雇理由とすることは許されない」。

(2) 他に被控訴人が「建学の精神」に反する言動があつたとして、学園の指摘するような事実はいずれも否認する被控訴人は、従来学園の建学の精神に反するような言動をしたことはない。

四  控訴人の主張するその他の諸点すなわち「R・T・Aの要望」、「パンフレツトの配布」、「署名運動」、「不当労働行為」については、原判決の証拠に基づいて認定した事実及びそれに基づく正当な判断が、当審の審理によつて一層明らかとなつたので、敢えて多言を要しないところ、要するに控訴人の右諸点についての主張は虚偽の事実を前提として、一方的独善的な見解を述べるにすぎないもので、その失当であることは明らかである。

五  結論

よつて本件解雇は不当労働行為として無効であり、これを認めた原判決は正当で、本件控訴は理由がないから失当として棄却すべきである。

第二附帯控訴について

被控訴人は次のとおり、控訴人より毎月きまつて支給される賃金(以下本項において月給という)及び毎年三回一定時期にきまつて支給される賃金(以下一時金という)につき従前の請求を拡張し、前記のとおりの判決を求めるのであるが、その理由は次のとおりである。

一  月給

1 被控訴人は昭和四一年度(昭和四一年四月から昭和四二年三月まで。以下同様)において学園から毎月二五日限り前月二一日から当月二〇日までの月給分として金二万九、六〇〇円(基本給金二万八、〇〇〇円と通勤手当一、六〇〇円の合計)の支払いを受けていた。

2 昭和四二年度以降において、被控訴人が控訴人学園より支給されるべき月給は、控訴人の主張(昭和四四年一二月八日付控訴人準備書面(二)一九項)によれば「教職員の給与は世間並で決して低賃金ではない」とのことであるから、学園と同じ私立高等学校において被控訴人と同じ高校教諭が支給されるべき月給を下まわることはない。

そこで同年度以降の被控訴人に支払われるべき月給を各年度につき人事院によつて行われた私立高等学校教諭の給与実態調査結果(以下人事院統計という)から計上し、かつ支払済みの月給を控除して算出すれば別紙(1)請求未払賃金一覧表記載のとおりとなる。

3 他の賃金資料との比較検討

学園には本件解雇当時までは定期昇給額(ないし率)を定める賃金規定が存在しなかつたが控訴人側証人林恵の証言によると、学園の賃金体系は公立学校教員のそれに準じ、且つ愛知県下の他の私学並とのことであるところ、昭和四二年度以降の愛知県立高等学校教諭の賃金並びに同年度以降の愛知県私立学校教職員組合連合によつて行われた愛知県下の私立高等学校教諭の賃金実態調査の結果より計上された平均賃金はいずれも右人事院統計により計上された賃金を上まわり、これらによつても同年度以降被控訴人に支給されるべき月給は右人事院統計結果を下まわらないことが明らかである。

なお学園は昭和三八年度より被控訴人を採用するにあたり初任基本給二万円、昇給は毎年金二、〇〇〇円以上を保障する旨約しており、事実昭和三八年度より昭和四一年度に至る三年間に計八、〇〇〇円昇給させている。

二  一時金

1 被控訴人は昭和四一年度まで毎年度学園より三回にわけて次のとおり一時金の支払いを受けていた。

名称        支払時期            支払額

(1) 夏季一時金  遅くとも毎年七月末日限り    基本給の一・五ケ月分

(2) 年末一時金  毎年度一二月二二日ないし二三日 基本給の二・四ケ月分

(3) 年度末一時金 遅くとも毎年度三月末日限り   基本給の一ケ月分

2 昭和四二年度以降において被控訴人が学園より支給されるべき右各一時金の額は各年度における前項2記載の人事院統計により計上された月給から右各一時金算出の基礎に入れない通勤費を控除した金額に前記各一時金の割合を乗じた金員を下まわることはなく、それによれば別紙(二)請求未払一時金一覧表記載のとおりとなる。

3 他の賃金資料との比較検討

前項において算出した昭和四二年度以降被控訴人に支払われるべき各一時金の各年度毎の合計金額を、学園がそれに準じた支払いをなしているという公立学校教員ないし愛知県下の私立高等学校教諭の対応各年度一時金合計金額と比較した場合、いずれも前項において算出した被控訴人に支払われるべき各一時金額を上まわり、これによっても被控訴人に支払われるべき各一時金は前項記載の算出方法による各一時金の額を下まわらないことが明らかである。

三  学園の各賃金支払義務

1 学園が被控訴人に対して行なつた昭和四二年度の月給カツト、不昇給取扱、一時金不支給及び本件解雇は被控訴人が労働組合員であることないし同人の労働組合活動を理由としてなした不利益取扱いであることは明らかで労組法七条一号の不当労働行為として無効であるから、学園は前各項記載の未払賃金、未払一時金の支払義務がある。

2 しかして学園の被控訴人に対する従前の対応からして将来の賃金(一時金を含む)についてもその不払は確実であるから、被控訴人には将来の賃金について予じめ請求をなす必要が存すること明らかである。

四  結論

よつて被控訴人は控訴人に対し、

1 昭和四二年四月分から昭和五五年一二月分までの毎月の賃金として合計二、〇五三万三、三六三円の支払い及び別紙(一)請求未払賃金一覧表の各月欄記載の各金員につき、いずれも支払日の翌日である同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを

2 昭和四二年七月以降昭和五五年一二月支給分までの一時金として合計七九三万五、九六二円の支払い及び別紙(二)請求未払一時金一覧表の各欄記載の各金員につき、いずれも支払日の翌日である同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで前同様の割合による遅延損害金の支払いを

3 昭和五六年一月分以降の毎月の賃金として毎月二五日限り金二八万二、四二三円及びこれに対する支払日の翌日である毎月二六日から支払済みまで前同様の割合による遅延損害金の支払いを

4 昭和五六年以降、年度末一時金として毎年三月三一日限り金二六万五、一〇三円及びこれに対する支払日の翌日である毎年四月一日から支払済みまで前同様の割合による遅延損害金、夏期一時金として毎年七月三一日限り金三九万七、六五四円及びこれに対する支払日の翌日である毎年八月一日から支払済みまで前同様の割合による遅延損害金並びに年末一時金として毎年一二月二四日限り金六三万六、二四七円及びこれに対する支払日の翌日である毎年一二月二五日から支払済みまで前同様の割合による遅延損害金の各支払いを

各求めるものである。

五  控訴人の主張に対する反論

1 昭和四一年度の被控訴人の基本給が二万八、〇〇〇円であつたことは控訴人の自認するところである(原判決事実摘示第三項請求の原因に対する認否四(一)〔原判決九枚目裏二行目から四行目まで〕。なお同摘示のとおり、控訴人は原審において、「基本給の内訳は」俸給二五、〇〇〇円、学級担任手当二、〇〇〇円、諸手当一、〇〇〇円と主張していたのである。)。基本給部分を従来の主張に反して過少に主張せんとするのは、昭和四二年度における賃金カツトの辻褄合せのためのゴマカシであることは明らかである。被控訴人は昭和四一年度までに基本給が控訴人主張の如き内訳をもつて支給されているとの説明を受けたことはなく、事実学園の教員の給料は基本給プラス一律支給の通勤手当で構成されていたものであり、そのことは甲第二号証の昭和四二年三月分(昭和四一年度)俸給明細票の不動文字で印刷された「基本給」欄に二万八、〇〇〇円と記載されていてその内訳の記載など一切存しないことからも明白である。

2 控訴人は学園の一時金(夏季、年末、年度末)は基本給に対する一定の掛け率で算定されるものではないというが、これまた虚偽である。既に控訴人は原審において被控訴人の、右各一時金の支給が基本給に対する一定の掛率で計算されており、右掛率がそれぞれ夏季につき一・五ケ月、年末につき二・四ケ月、年度末につき一ケ月であるとの主張を認めていたのである(原判決事実摘示請求の原因に対する認否四(三)〔原判決九枚目裏末行から一〇枚目表一行目まで〕の「原告主張のとおりの各一時金を支給していること」を認めるの記載)。年度末一時金はP・T・Aの負担と計算で支払われるとの控訴人の主張も虚偽であり、そもそも意味不明である。

3 将来の賃金請求に関する控訴人の主張は、その前提として、被控訴人と雇用関係があつた当時においても被控訴人が欠勤が多かつたとするものであるが、右の事実が存在しないことは従前の審理で明らかであり、被控訴人を不当解雇してその就労を拒否した控訴人のかかる主張はためにする空論である。本件のような場合に将来の賃金請求が認められることは同種事案の判例に照らしても明らかである。

4(1) 控訴人の主張五(一)については、原判決の正しく認定するように本件解雇及びそれに至る賃金カツトが被控訴人に対する不当労働行為であつて無効である以上、何らとるにたりないものである。

(2) 控訴人の仮定的主張1について。

本件の如き使用者の責に帰すべき事由(不当解雇)によつて就労を拒否された労働者が解雇期間中の昇給額、一時金を含む賃金請求権を有することは民法五三六条二項によつて明らかでそのために使用者が昇給額、一時金支給の意思表示をすることを要するものではない(そもそも解雇者に対してそのような意思表示をする筈もない)。しかしてその昇給、一時金の額は解雇がなく被控訴人が継続して就労していた場合に学園から給付されるべき賃金額を、解雇前の昇給、一時金の支払実績、解雇前における昇給、一時金の支払の約定、さらに本件解雇後の学園の教職員に対する昇給、一時金の支払状況などから合理的、客観的に判定し、確定すべきものである。かくして被控訴人は附帯控訴により拡張した請求の趣旨記載のとおりの具体的賃金請求権を有するのである。

仮りに右の民法五三六条二項の賃金請求権が認められないとしても、学園は被控訴人に対し本件不利益取扱(賃金カツト及び本件解雇)をなすに当り、右不利益取扱が不当労働行為に該当し無効であることの明白な認識をもつてなしたものであり、右不利益取扱は民法七〇九条の不法行為を構成する。よつて学園は右不法行為によつて被控訴人に被らしめた損害を賠償する責任があるというべきであり、右損害(逸失利益)額は前述したのと同様に合理的、客観的に確定される右賃金額を下まわることはない。

(3) 控訴人の仮定的主張2(消滅時効)について

この点に関する控訴人の主張事実は認めるが消滅時効の効果は争う。被控訴人は賃金、一時金について本件訴状提出以後昭和四九年四月二五日迄に履行期が到来する未払分の請求を同年四月二二日付同日陳述の準備書面でなし、その後に履行期が到来する分についても同様請求し、もつて各月及び各季の請求権を行使しているから、これにより右請求権全部の消滅時効が中断している。加えて、賃金及び一時金の請求権は基本たる労働契約上の地位から派生する具体的賃金請求権の一つであるから、基本たる労働契約上の地位の確認の訴が提起され、その訴訟が係属している限り、右賃金、一時金請求権の消滅時効は中断するのであり、本件労働契約上の地位の確認の訴の提起によつて控訴人主張の時効が中断したことは明らかである。

(4) 控訴人の仮定的主張3(仮執行に基づく控除)について。

この点に関する控訴人主張の事実は認めるが、被控訴人の請求から控除されるべきであるとの点は争う。すなわち控訴審では第一審判決の仮執行に基づく弁済は考慮に入れないで請求の当否を判断すべきことは当然だからである。

(証拠関係)<省略>

理由

第一地位確認の請求(本件控訴中当該部分)について。

一  引用にかかる原判決事実摘示記載の請求原因第一項、第二項の事実は当事者間に争いがない。

二  原判決がその理由二、三の各冒頭において挙示する証拠並びに当審における被控訴本人尋問の結果によりいずれも真正に成立したものと認められる甲第三三ないし第三六号証、第三八号証の一、二、第三九ないし第四一号証、第四二号証の一ないし五、第四三、第四四号証、第四六ないし第五九号証、第六〇号証の一ないし四、第六一号証、成立に争いのない甲第三七号証、第四五号証、当審(第一、二回)証人林恵の証言と弁論の全趣旨によりいずれも真正に成立したものと認められる乙第四五号証、第四六号証の一、二、第四七号証、第四八号証の一ないし三、第四九号証、第五七ないし第五九号証、第六〇号証の一、二、第六一号証の一、二、成立に争いのない乙第五四号証、第六四号証、第六五号証、第六九号証の一ないし三、第七〇号証、第七二号証、第一一〇号証、当審(第一回)証人林恵の証言(一部)、当審における被控訴本人尋問の結果(一部)を総合すると、左記のとおり補正するほか、原判決が、その理由二、三において認定したのと同一の事実を優に認定することができ、これに反する当審(第二回)証人林恵の証言と弁論の全趣旨によりいずれも真正に成立したものと認められる乙第五〇号証、第五一号証、第五二号証の一、二、第五三号証、第六二号証、第六三号証の一、二、第六六号証、第六七、第六八号証の各一、二、第七一号証、第七三号証、第七四号証の一ないし三、第七五ないし第八〇号証、第八一号証の一ないし一〇、第八二号証、第八四ないし第八六号証、第八七、第八八号証の各一、二、第八九ないし第九八号証、第一〇〇ないし第一〇九号証、第一一一ないし第一一八号証、第一一九号証の一、二、第一二〇ないし第一三七号証、第一三九ないし第一四四号証、第一四七ないし第一四九号証、第一五〇号証の一ないし五、第一五一号証の一、二、第一五二ないし第一五七号証、第一五八号証の一ないし五、第一五九号証の一ないし三、第一六〇号証、成立に争いのない乙第八三号証、第一四五号証、三枚目不動文字での印刷部分の成立は争いがなく、その余は当審(第二回)証人林恵の証言と弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一三八号証の各記載部分、原審(第一、二回)及び当審(第一回)証人林恵、原審証人丹菊桂、同大柳枝盛、同玉井康之、同小塚義人、同水野俊法、同足立てる子の各証言部分、原審及び当審における被控訴本人尋問の結果の一部は、いずれも措信しがたく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。よつて原判決の理由二、三(原判決三四枚目裏二行目から同六一枚目表一行目まで)をここに引用する。

(一)  原判決四三枚目表一〇行目の「強行」を「強硬」と、同四九枚目裏二行目の「同年」を「昭和四二年」と、同六一枚目裏九行目の「発句経」を「法句経」と各改める。

(二)  原判決三八枚目裏三行目の「被告学園運営委員会の構成員でも」を削除し、同四〇枚目表四行目の「その後」から同五行目終りまでを削除し、同五三枚目表七行目から八行目にかけての「学校長から氏名を入れるよう指示を受けて」及び同八行目の「その旨」を削除し、同五三枚目裏五行目から六行目にかけての「まもなく呼リンは発見された。」を削除し、同五四枚目表八行目の「一三、四回」を「一七回」と、同九行目の「二、三回」を「五回」と各改め、同五五枚目表四行目の「古知野中学校など六校」を「宮田中学校など四校」と改め、同五八枚目表八行目の「雨が」から同一〇行目の「こともあつた。」までを削除する。

三  しかして右認定の事実をもとに本件解雇の効力について考えると当裁判所も、右解雇は不当労働行為に該当して無効であると判断するものであるが、その理由は原判決がその理由四(原判決六一枚目表二行目から同六九枚目裏一〇行目まで)において説示するところと同一であるから、ここにこれを引用する。

四  しかしながら、控訴人は当裁判所も同一に帰した原判決の右認定、判断を争い、前記当審における主張記載のとおり極力主張し、当審(第一回)証人林恵の証言は、これにそうものである。一方被控訴人は当審においてもその本人尋問において、被控訴人の従来の主張にそい、原判決認定の事実とほぼ符合する供述をして、これと対立している。当裁判所は結局原判決の認定、判断を是認すべきものと考えるのは前記のとおりであるが、当事者間の争いは深刻で、争点は多岐にわたるので、当審において新たに取調べた証拠をも参酌して、以下右判断の内容を若干補足することとする。なお争いは主として原判決理由二の認定にかかる事実の当否にかかるものであるから、その順序により、かつ、前顕証拠のうち便宜のため、関連する書証(前記措信しないとして排斥したものを含む)のみを各争点毎に一括掲示した。

1  被控訴人の学園就職時の説明について(原判決理由二(一)(1))

(甲第三九号証、乙第六六号証、第七三号証、第七四号証の一ないし三、第七五号証、第九九号証、第一四九号証)

被控訴人は学園に就職するについて紹介者岩田勝、橋本翠川と昭和三八年三月下旬一宮駅構内の喫茶店で短時間面談したが、橋本はかねて岩田を通じて被控訴人に対し、学園の特色、校風など伝えられていることと思つていたため、宗教をもとに女子教育を行なつている地味な学校である旨の簡単な説明をしたにとどまつた。また岩田から事前に学園の特色、宗教行事など詳しい説明が行われたとは認めがたい。次いでその後間もなく、被控訴人は学校長足立{門言}励と学園において面談したが、その席上においても給与などの勤務条件のほか、格別右の点についての説明があつたものとは認め難い。被控訴人は学園に就職後徐々に自からの体験を通して学園の特色、校風、ひいて建学の精神を感得するに至つたものと認めるのが自然である。

しかし、以上の点の当否は被控訴人の就職直後の言動が問題とならない以上本件解雇の効力の判断に影響するものではない。

2  被控訴人の組合活動と職員会議、希望職員会議について(原判決理由二(一)(2))

(甲第一一、一二号証、第二〇号証、第二三号証、第四〇号証、乙第四五号証、第五〇、五一号証、第八八号証の一、二、第九〇ないし九七号証、第一四八号証、第一五一号証の一)

被控訴人が職員会議における発言を中心として、学園における教育、労働条件の改善について活動していたこと、スクールバスの件についてはバレー部主将長崎(生徒)と水谷運転手のみならず、同部顧問で体育担当であつた北村教諭に対しても林事務局長がこれを叱責し、被控訴人が、その正当性を指摘してこれを擁護する場面のあつたことは事実と認められる。また文化祭における宿直の慣行や生徒会費の一部の使途についての疑問は単に被控訴人からのみ提起されたものではなかつたとしても、これが一つの契機となつて右慣行の改善、使途の釈明などその後の措置につながつたことは否定しがたい。しかして生徒会費の半額がクラブ活動指導費として指導にあたつた教諭に支払われているとの学園の主張にそう事実は原審証人熊沢信夫、同日比野忍の各証言からしても到底これを認めがたいが、仮りにそうであるとしても、生徒会費の本来の使用目的からして疑惑をもたれるのは当然である。そして学園提出の証拠によつてもなお右生徒会費の会計処理が明朗で疑問の余地のないものであつたと断ずるのは困難である。

希望職員会議が昭和四一年三月二五日に開催された頃まで毎年一回は少くとも開かれていたことを認めるに足る証拠はなく、同日の右会議が被控訴人らの「みんなの会」の活動の一環として大久保教諭からの働きかけにより開かれたことも原審証人玉井康之の証言からして明らかである。また同日の会議で採択された要望書(甲第一一号証)の原案(甲第七三号証)が「みんなの会」で被控訴人や大久保教諭を中心としてまとめられたものであること、教務主任である大柳は右原案作成のための「みんなの会」の会合に呼ばれて、職場に関する種々の問題点について過去の経験を話して意見交換したものであること、被控訴人や大久保が右希望職員会議で要望書の採択のために努力したこと、翌二六日右要望書を学校長に手交するについては古参の大柳、玉井両教諭が主としてこれに当つたのであるが大久保教諭と被控訴人もこれに同行していたものであることなどの事実も否定しがたい。右要望書に対しての学校長の発言内容、同日これを運営委員会において検討し、学園の一応の回答がなされたこと及びその内容、同月二八日の特別職員会議でも、抽象的ながら職場の労働環境の改善が約束されたことなどの事情も甲第一二号証、第二〇号証によつて肯認される。控訴人は大久保教諭は当時学園の運営委員でなかつたと主張し、乙第四五号証によるとなるほど同教諭は昭和四〇年度の運営委員となつていないことが明らかであるが、甲第二三号証によると同教諭は昭和四一年度の運営委員会の構成員となつており、要望書の検討された前記運営委員会に出席していたことは甲第四〇号証によつても否定しがたいところと思われる。昭和四一年四月に事務用品の若干の整備が行なわれたのは、被控訴人らの前記一連の活動の成果ではあるが、学園の応えたところは軽少である。

3  学園の教育、労働条件について(原判決理由二(一)(3))

(甲第二四号証、第三七号証の一ないし五、第三八号証の一、二、第四一号証、第五八号証、第六〇号証の一ないし四、第六一号証、乙第三七号証、第五〇号証、第五一号証、第五二号証の一、二、第五三ないし第五五号証、第六三号証の一、二、第七九号証、第八三号証、第八四号証、第八六号証、第八七号証の一、二、第八八号証の一、二、第九八号証、第一〇八号証、第一一五号、第一一六号証、第一三二号証、第一三五号証、第一四四号証)

学園は昭和三九年当時生徒の質を問題とせず全部を受入れる方針をとつていたため、質の低下を招き補導される生徒も出て、昭和四〇年一月二九日の職員会議でこれが問題となり、そのような生徒に対しては退学、停学、謹慎などの厳しい懲罰が行なわれた。前項スクールバス使用の件については昭和四〇年六月バレー部生徒長崎に対しても謹慎処分が行なわれている。

昭和四〇年一月三〇日の生徒の持物検査は、これを報じた新聞記事(乙第五四号証)によると、学園の、生徒の代表である室長、副室長を立会わせたとの主張に符合するようでもあるが、右立会のなかつたことを明言する原審証人熊沢信夫の証言と対比するといずれを真とも断定しがたい。しかし右持物検査はその実施方法が適切を欠き、生徒の手紙や手帳までも無断で調べるなどの行き過ぎがあつたことは覆い難く、このため一部生徒の反発を招き、集団欠席などの抗議行動にまで発展したものであつて、法務局人権擁護委員会の調査を受けるなど、学園の躾教育のあり方に反省を迫るものといえる。しかして右の行動をとつた一部生徒に対する停学処分も行なわれたのであり、被控訴人らが学園におけるかかる教育、労働条件や生徒の教育指導面でのあり方を問題意識をもつてみるべき素地は優に存したといえる。

学校長またはその一族と特定の関係のない教職員が、そのゆえに毎年四、五名他校に転職したり退職していくのか、或いはこのことと教職員の転退職は全く無関係であるのかは、これをいずれとも断定しがたい面のあることは否定できないが、学校長及びその一族が学園の中枢を占めてこれを支配している実情と学園の教員の給与、授業持時間数など後記のような労働条件の下に短期間で転退職していく教員が目立つ状況にあつたことは原審証人熊沢信夫、同日比野忍の各証言によつても窺知されるところである。

学園の教職員、事務職員は生徒数に比して少なく、教員は公立学校では週一八時間程度の授業時間であるのに学園のそれは二二ないし二四時間に及ぶものが多かつたこと、前記要望書でもホームルームを含めて週二〇時間以内にすることを求められていたが、学園はその実態を認識しながら、現実にはこれに応えられず、右要望書に対しても現状では週二二ないし二四時間になりそうだと述べたり、職員会議でも林事務局長が週二二時間以上持つよう提案する実情にあつたことは否定できない。学園は乙第五二、第六三号証の各一、二、第八三号証、第八四号証などを援用し、昭和四〇ないし四二年度における学園教員の週平均授業時間数は一八時間前後のところである旨主張するが、右はごく短時間しか担当しない教員をも算入したうえで平均値を出したもので個々の教員の実態を反映しているとはいえない。前記実情を示す甲第一一号証、第一二号証、乙第三七号証、原審証人大柳枝盛、同日比野忍の各証言と対比しても採用しがたい。

学校長が女子職員に水をかけた事件は散水の際の水があやまつてかかつたにすぎないとの学園の主張は直接の当事者である原審証人日比野忍(旧姓高城)の証言に照らして明らかな虚構というべく、林事務局長が立候補した際の職員朝礼で同人を応援する話しの出た事実も否定できない。

被控訴人らを中心とする「みんなの会」で生徒に対しアンケート調査が行われたことについては生徒会指導の担任であつた本多教諭も関与していたのであり、これが学園と全く関係なく、秘密のうちになされたものということはできない。

4  被控訴人に対する転任(退職)勧告について(原判決理由二(一)(4))

(甲第五号証、第六号証、第一九号証、第二〇号証、第四六号証、第五二号証、第七三号証、乙第二八号証、第一四二号証)

被控訴人に対する最初の転任(退職)勧告が昭和四〇年一一月頃なされたことは甲第一九号証、第二〇号証、第四六号証の記載から明らかである。学園は右勧告は同年二月になされたものであるというが、その事由として主張する被控訴人の昭和三九年度における生徒指導要録の提出遅滞などの点は主として昭和四〇年四月以降に問題となるべき事項であることを考えるとにわかに首肯しがたい。しかして右退職勧告はその直後に一旦撤回されたことは当事者間に争いがないのであり、かかる事実からしても被控訴人に当時退職を受認しなければならぬほどの落度があつたとは考えられず、被控訴人の叙上の如き学園の労働、教育条件の改善を求めての活動が右勧告の動機をなしていたことは容易に推認しうるところというべきである。学園は被控訴人らの組合ないし「みんなの会」の活動は当時非公然のもので学園の知る由もないものであるといい、なるほど組合が公然化されたのは昭和四二年三月に至つてのことであるが、その間被控訴人の職員会議での発言、前記要望書の提出など学園との接触を伴う動きは当然了知されていたものである。昭和四一年四月二〇日校長会で被控訴人の滝高校転任の話が持上つてから後の学園の、被控訴人に対する転任(退職)勧告が、同年一一月頃から始まり、被控訴人が明確に拒絶した後にも執拗に継続された経過は原判決認定のとおりであり、学園の意図を露骨に示すものというほかない。この頃北村教諭に対しても転任勧告がなされた事実は否定しがたく、北村教諭が自発的に退職の意思を表明したものとはいえない。

5  分会(組合)公然化から本件解雇までの経過について(原判決理由二(一)(5)ないし(8))

(甲第一号証、第一三ないし第一五号証、第三一号証、第三四号証、第四三号証、第四四号証、第五九号証、乙第五号証、第七号証、第八号証、第一〇号証の一、二、第一三号証、第一四号証、第一九号証、第三二号証、第三八号証、第五六号証の一ないし四、第六九号証の一ないし三、第七四号証の一、二、第一〇〇ないし第一〇八号証、第一一一ないし第一一三号証)

昭和四二年三月七日、一六日における生徒集会、三月一九日新聞に報道された生徒の署名運動を被控訴人が示唆もしくは扇動したとの点は、これにそう乙第五六号証の一ないし四、第一〇一号証、第一〇四号証、第一〇五号証、第一一一号証等の記載はにわかに措信しがたく、乙第一〇号証の一、二、原審証人日比野忍の証言をもつてもこれを証するに足るものとはいえない。却つて右証言と甲第四三号証、第四四号証によるとこれらの生徒の行動は、学園の本件解雇問題に対するあり方に疑問を感じた生徒達が真剣に考えた結果自からの意思に基づいてなしたものとみるのが真相に近いと思われ、学園の疑いは単なる想像の域を出るものではない。しかしてP・T・Aの要望は主として学園側の説明のみに依存して、被控訴人らの弁明を充分聞くことなく、右の生徒の署名運動などの行動が被控訴人の扇動によるものであるとの誤まつた判断に基づいてなされたものと認められ、これを解雇理由とすることはできない。そして学園の右退職勧告もP・T・Aの要望も被控訴人に対してその具体的理由は示されていないのである。

組合公然化直後に学校長やその妻足立てる子のとつた言動は反組合的意思を如実に窺わせるものであり、学園が教職員に対し、外部の団体に無断で加入しない旨の誓約書を提出させようとした事実は学園の意図を端的に示すものであつて、ここにいう外部の団体が公然化された被控訴人らの属する組合(分会)を意味することは疑いの余地のないものというべきである。

学園が昭和四二年四月以降被控訴人に対してとつた原判決認定の如き一連の措置は明らかに前記学園の意図と軌を一にし、被控訴人をことさら教師本来の仕事から離隔し、これを差別冷遇するもので、名古屋法務局一宮支局から、学園の措置を不当として口頭の説示があつたのも当然であるが、学園はかかる措置を本件解雇に至るまで継続したのである。

6  被控訴人主張の本件解雇の理由ないし事情について(原判決理由二(二))

(1) 私学共済組合事務について

(乙第四四号証の一ないし一八、第六七号証の一、二、第七一号証、第七九号証、第一二〇号証、第一三八号証)

被控訴人が充分右事務を遂行できなかつた事情の一つには、組合員の資格取得、被扶養者の変更等について本人からの申告を要すべきところ、その連絡が遅れたり、また標準給与の記載のしかたなどについても事務局の説明が不充分であつたなどの点も斟酌されなければならない。小塚教諭、熊沢純一教諭の資格取得の手続が遅れたとして学園から被控訴人が注意をうけたり、そのために両教諭が迷惑したとの苦情が述べられたりしたことはなかつたものと認められる。

(2) 温交会幹事の件

(甲第二号証、第三号証、第三四号証、乙第一二一号証、第一二三号証)

帳簿紛失の点の真相はいずれとも断定しがたいが、被控訴人が旅行後文書で会計報告したことは原審証人小塚義人、同大柳枝盛の証言からも肯認され、その後昭和四二年五月頃一旦右温交会が解散され、被控訴人に対して一応の残金の清算がなされた事実のあるところよりすると事務の引継に格別支障があつたものとも考えられない。使途不明の不足現金が未処理であるとすれば、被控訴人の弁明するとおり給料からの差引清算を行なうことも考えられるのに当時そのことで学園が被控訴人に強く弁償を求めた形跡もない。

(3) 職員会議議事録の件

(乙第三七号証、第九八号証)

被控訴人主張のとおり議事録を空白にする直前の記録が昭和三九年度議長団の一人本多教諭の筆跡であることは認められるものの、空白直後の筆跡もまた本多教諭のものと断定するのは困難であり、その間の空白が本多教諭の責任であるとすることはできない。

(4) 生徒指導要録の件

(乙第三七号証、第四六号証の一、二、第一二四号証)

被控訴人は職員会議議事録(乙第三七号証)の記載をとらえて三月三一日を提出期限であるというが、原審証人大柳枝盛の証言に照らして措信しがたい。

(5) 学内新聞「まこと」の件

(乙第一一号証、第八九号証、第九〇号証)

被控訴人の寄稿した記事に学校長から署名を入れるよう指示があつたとの点は否定すべきものと考えるが、さりとて外部配付が取止めになつたのは右記事が学園内に物議をかもしたためであるとの点もにわかに措信しがたい。右新聞は生徒を中心とした内部配付を主目的としたものであり、右記事は発行当時一、二の個人的な批評はあつたものの、格別学園内で問題とされたことはなかつたものと認められる。

(6) 呼リン紛失の件

(乙第一三六号証)

紛失した呼リンがその後発見されたか否かはいずれとも断定しがたい。被控訴人が探そうとしなかつた点は責むべきであるが、学園から特に注意を受けたわけではない。

(7) 図書貸出の件

(8) 自習時間について

(甲第六三号証、乙第四七号証、第四八号証の一ないし三、第一二五ないし第一三〇号証、第一四一号証、第一四七号証)

原判決の認定するとおり、被控訴人自身が自習時間の多かつたことを反省しているのであるが、このために文書実務の進展が遅れたものとはいえない。

(9) 中学校訪問の件

(乙第一七号証、第四九号証、第一二九号証、第一三七号証、第一五四号証)

私立学校において生徒の確保は重要であり、被控訴人が学園と見解を異にするとはいえ、学園から命じられた中学校訪問を実行しなかつたのはよくないことであるが、そのために格別支障を生じたものとは認められず、当時学園がこれを咎めたこともなかつたのであるから、これを解雇事由とするのは相当でない。

(10) 学校長叙勲の際の募金の件

募金に応じるか否かは各人の自由意思によるのであり、本件解雇の効力とは無関係である。

(11) パンフレツト配布とその記載内容について

(甲第七ないし第一〇号証、第一六号証、第一七号証、第一九号証、第三三号証、第三四号証、第三七号証の五、第五八号証、第六〇号証の一ないし四、第六一号証、乙第一五号証、第一六号証、第一九号証、第二二号証、第二五号証、第二六号証、第二八号証、第三三号証、第五一号証、第五三号証、第一〇九号証、第一一五号証、第一三五号証、第一四六号証)

分会ニユース第七号(甲第九号証)において被控訴人が学園の運営の不明朗な点として指摘した事項がいずれも事実無根のものであるということはできない。すなわち

<1> 学園の教職員の賃金

昭和四二年四月一日施行の学園の教員の俸給表(甲第三四号証の五月二日欄、乙第一四六号証)によると学園の大学卒初任給は二万二、〇〇〇円であるが、甲第五八号証の他の各私立高校の昭和四一年のそれは最低二万六、六〇〇円から最高三万二、七〇〇円に及んでいて学園のそれより遙かに高い。公立高校の昭和四二年三月当時の大学卒初任給二万七、四〇〇円(甲第三七号証の五)と比較しても学園のそれは低水準にあることは明らかである。被控訴人は昭和四一年度給料二万八、〇〇〇円で当時二八歳であつたがこれを右の私立高校のそれと比較すると二五歳の最低二万九、八〇〇円にも及ばないものである。

<2> 授業持時間

これについては3において前述した如く公立高校の週一八時間程度に比較すると二二ないし二四時間の過重負担となつていたものである。

<3> 生徒積立金の利息、使用方法

学園では生徒積立金を他の学園受入金と区別しないで一括預金にしているため利息計算が不可能で結局他の資金と共に流用される恐れがあった。他の私立高校の例では別途積立金として利息金額を明示し報告をしている(甲第六〇号証の一ないし四)ので、これとの比較において学園のかかる処理方法は不明朗なものと指摘されるのもやむをえないものである。また修学旅行の附添の教員の費用が当時旅行斡旋業者の負担であつたとしても、それらが結局生徒の頭割りに生徒積立金の負担に加算される危険のあることも否定しえない。

<4> 生徒会費の使途

これについては2において前述したとおり生徒会費の半額が本来の生徒会のために使用されていない疑いがあつて、被控訴人らはこれを指摘したものである。

<5> 短大保育科増設の件

文部省の認可基準監査のために学園のとつた措置に被控訴人らの疑惑を招く部分のあつたことは事実と認められる。

<6> スクールバスの件

料金、利用方法についての苦情があり、これを検討すべきことが指摘されたものである。

<7> 小使いさんの件

小使いさんの一四時間勤務は当時被控訴人が苦情を訴えられたことによるものと思われ、労働基準監督署にそのため相談に赴いたほどのものである。

<8> 教員に対する水かけについて

3において前述したとおり事実と認められる。

<9> 二人の先生をゴマカすようにやめさせるとの件

本件係争の被控訴人の主張を記載したものと認められる。

以上のとおり職場の労働、教育条件の改善をはかるとの意識で批判的にみる場合学園に種々の問題があつたことは否定できず、これらの指摘が虚偽の事実を前提として学園を中傷誹謗するのみのものというべきでないのは当然である。

次に控訴人は分会ニユース八号(甲第八号証)の記述は被控訴人が学園の建学の精神を真向うから否定し、これを誹謗するものであると非難する。たしかに引用の記述部分のみを形式的、表面的にみればそのように評価できないでもないが、その後の「学校の教育方針に従つて教育活動を行えば、生徒との信頼関係が築かれ教育効果もあげられるような学校に一日も早くしたいと願っています。」などの記述と共にこれを全体としてみれば、被控訴人が学園における教育の質の向上を願望する意図のもとにかかる記述をなしたものとの原判決の認定は首肯できるところであつて、控訴人の右主張は失当といわざるをえない。

パンフレツトの配布が勤務時間中になされるなど学園の業務に支障を与えたものと認めるに足る証拠は存しない。

(12) 丹菊会長の父兄宛文書窃取の件

(甲第一九号証、第三四号証、第五二号証、乙第二〇号証)

被控訴人が事務職員の捨てた原紙を拾得したのか成いはこれを窃取したと評すべきかは、学園と被控訴人の観点の相違によるが、文書の内容を予め知らなければ拾得不能となるものでもないから控訴人主張の如く窃取したとまでいうのはあたらない。

(13) 「新任の先生方へ」のパンフレツト配布の件

(甲第三三号証、第三五号証、第三六号証、乙第二二号証、第二五号証、第二六号証、第六八号証の一、二)

右パンフレツトの配布を受けた新任の先生数名から被控訴人に対し出された抗議の文書(乙第二五号証)があるが、これが自発的意思に基づいているかについては疑問の余地がある。

(14) 運動場の草とり等整備の件

(甲第六二号証、乙第二一号証、第二四号証、第六九号証の一ないし三、第一一二号証)

被控訴人が雨の日に草とり、小石拾いなど運動場の整備を命じられたことがあるかどうかはいずれとも断定しがたいが、昭和四二年四月二〇日と二四日に関する学校日誌及び気象台の資料でみる限りは、右の両日午前八時以降の就業時間内に降雨があつたと断ずるのは困難である。

(15) 学校長に対する抗議の件

(乙第二三号証、第二七号証、第一三一号証)

被控訴人が自己に加えられた差別的不利益取扱いに対し一定の範囲で抗議するのは非難できず、この抗議のため学園の他の業務に支障をきたしたものとも認められない。

(16) 被控訴人の遅刻、早退、欠勤の件

(乙第九号証、第三〇号証、第三一号証)

被控訴人一人のみ午前八時出勤を命じられたための遅刻は非難できず、早退、欠勤についても正当な事由があり、届出のあつたものもある。

(17) 昭和四二年三月一六日の生徒集会の件

5において前述のとおり、被控訴人がこれを示唆、扇動した事実は認めがたい。

五  建学の精神について

(一)  原判決の説示について

控訴人は、原判決の説示するところによれば、建学の精神は学校運営を通じて具体化されていない限り、全く意味をもたないもののように解される点において不当であり、また建学の精神に対する考え方につき批判が許されるとするのは窮極のところ建学の精神ひいては私学の独自性と存在意義を否定することになるから、これまた不当である、さらに建学の精神に対する実践方法について批判を許すことは具体化された建学の精神を批判することであるが、それは建学の精神を肯定したうえでなされるべきもので無条件に許されるべきことではないからこの点の原判決の考え方も肯認できないと主張するのであるが、右控訴人の所論は原判決を正解せず、独自の解釈を前提としてこれを非難するにすぎないものであつて採用できない。当裁判所も原判決の説示するところは正当として是認すべく、これと同様に解するものである。

(二)  学園における建学の精神及び被控訴人の言動について

学園において控訴人主張のごとき建学の精神に基づき独自の教育方針、校風が樹立形成され、またこれを具体化した実践方法がとられていることは控訴人援用の証拠等によつて明らかであるが、前認定の事実によれば、これとの対比において、被控訴人の言動が許された批判の域をこえて、右の建学の精神に抵触していたものということはできない。甲第九、第一〇号証の分会ニユース記事についての原判決の認定、判断(原判決五六枚目裏二行目から五七枚目表四行目まで、同六一枚目裏末行から六二枚目表八行目まで)は四6(11)においても触れたとおり当裁判所もこれを支持すべきものと考える。

控訴人は他にも被控訴人が学園の建学の精神を否定し、またはこれと抵触する数々の言動をしている旨主張するが、前顕措信しない証拠を除いてこれを認めるに足る証拠はなく、控訴人の右主張は採用できない。

六  結論

以上の次第で、当裁判所も被控訴人の地位確認の請求は正当として認容すべきものと判断する。

第二賃金及び一時金(以下特にことわらない限りあわせて賃金という)の請求(本件控訴中当該部分及び附帯控訴)について

一  前項第一において説示したとおり、本件解雇は無効であるところ、本件解雇以降学園が被控訴人の地位を否定し、その就労を拒否し、賃金の支払をなしていないことは当事者間に争いがないから、控訴人は民法五三六条二項により本件解雇以降も学園に対する賃金請求権を有する。

しかして学園の右態度からすれば将来の賃金についてもその不払いは確実であると考えられ、被控訴人には将来の賃金についても予じめ請求をなす必要が存するというべきである。控訴人は被控訴人との間に現に具体的賃金請求権を発生させるべき事実関係が成立しておらず、被控訴人から将来にわたつて適時の労務提供を期待できる状況にないから、被控訴人の右将来の賃金請求はその要件を欠く旨主張するが、右主張は上来説示するところに照らして失当であること明らかであるから採用できない。

二  被控訴人は昭和四二年度以降学園より支給されるべき賃金は人事院によつて行なわれた私立高等学校教諭の給与実態調査結果(人事院統計)を下回ることはないとして、これに基づき従前の請求を拡張し、本件賃金及び一時金の請求に及んでいる。しかし無効とされた解雇期間中の特定の従業員の賃金をいくばくとするかについては、できるかぎり、これを解雇がなかつた場合の当該従業員の地位にひき戻して具体的に決すべきであると考えられるところ、被控訴人については、次に述べるように、かかる方法によつて解雇期間中の賃金を具体的に確定することが可能なのであるから、これによるべきものであり、常に多数の事例の平均値を示すにすぎない前記人事院統計の結果によつて右賃金額を決定するのは相当でない。よつて当裁判所は被控訴人の主張する右の賃金算定の方法を採らない。なお学園には昭和四二年四月一日から施行された給与規定(乙第一四六号証)が存することが窺われるが、被控訴人の解雇前の賃金、一時金が、これに準拠していたとの主張、立証はなく、また同規定の内容にてらしても、これによつて被控訴人の解雇期間中の賃金、一時金を算定することは不能であるから同規定に基づく算定方法は採用しない。

三  被控訴人の昭和四一年度の賃金月額が二万九、六〇〇円であつたこと、学園の高校の教員の基本給部分が、昭和四二年以降毎年少くとも一割を下らない程度の増加があること、被控訴人に対する賃金は昭和四二年四月から一一月までは二万七、九八〇円、同年一二月から昭和四三年三月までは二万六五〇〇円しか支払われなかつたこと、昭和四二年度の一時金は全く支払われなかつたこと、学園では被控訴人主張のとおりの各一時金がその主張のとおりの率で支払われること、学園における賃金支払方法、各一時金の支給時期は被控訴人主張のとおりであることは当事者間に争いがない。(控訴人は当審において被控訴人に対し右定時の昇給、一時金の支給を約束し又はその支払の意思表示をしたことはなく、一時金ないし賞与の掛け率も一律に決しえないから、被控訴人について昇給額、一時金の額は具体的に確定しておらず従つて本件賃金、一時金の具体的請求権は発生しない旨主張し、その趣旨は前記自白を撤回するもののようにも考えられるが、その要件についての何らの主張も立証もない以上到底採用しがたい)。

控訴人は昭和四二年度の被控訴人の賃金につき学級担任手当二、〇〇〇円が支給されなくなつたと主張するが、これは前記の控訴人の措置が不当労働行為である以上理由がなく、同年度の各一時金を支給しないことにつき被控訴人が講師なみの扱いとなつたためと主張する点についても同様に理由がない。同年度から通勤手当が実費支給となり一、四八〇円となつたことは、原審における被控訴本人尋問の際に被控訴人自身明らかに否定しないところであるから、そのように推認され、右認定に反する証拠はないが、同年一二月以降は被控訴人が通勤しなくなつたので右通勤手当を支給しなかつたとする控訴人の主張は前掲乙第九号証の記載に明らかに反し理由がない。しかし当審における被控訴本人尋問の結果によると被控訴人は本件解雇後は学園に通勤しなくなつたことが認められ、右認定に反する証拠はないから、被控訴人に対する右実費の通勤費は昭和四三年三月までに限つて支給されるべきものである。また年度末一時金はP・T・Aから支給されるものであるという控訴人の主張はこれを認めるに足りる証拠がない。

四  そうすると被控訴人の教育活動を奪つた控訴人の前記措置は不当労働行為であつて許されず、被控訴人についても他の教員と同様、昭和四二年以降も賃金の基本給部分(通勤手当を除く)について毎年少くとも一割の増加が認められ、昭和四二年度の賃金減額、一時金不支給は不当労働行為であるから、これらについても被控訴人は賃金請求権を有する。昭和四一年度の被控訴人の基本給部分が二万八、〇〇〇円であつたことは当事者間に争いがない(控訴人は学級担任手当二、〇〇〇円を基本給に算入するのは誤りであるというが、右が基本給に算入されることは控訴人の自白するところであり、また被控訴人の学級担任を奪つた行為が前記のとおり不当労働行為として許されないものである以上右手当を支給しないとする控訴人の主張は理由がない)から、これを基礎に被控訴人に対する未払賃金及び未払一時金を算定すれば、昭和四二年四月以降昭和五五年一二月までの各未払賃金は別紙認容未払賃金一覧表記載のとおりで、その合計が九七〇万七、九九八円となることは計数上明らかであり、また被控訴人は昭和五六年一月以降毎月一〇万六、三二二円の賃金請求権を有することとなるが、これらを超える賃金請求部分は理由がない。次に昭和四二年度夏季一時金以降昭和五五年度まで(但し同年度末一時金を除く)の各未払一時金は別紙認容未払一時金一覧表記載のとおりであるが、昭和四四年度年度末一時金までは被控訴人の請求額の範囲で計算するとその合計が四〇九万〇、二〇〇円となることが明らかであり、また被控訴人は昭和五六年以降年度末一時金として毎年三月三一日限り一〇万六、三二二円、夏季一時金として毎年七月三一日限り一七万五、四三一円、年末一時金として毎年一二月二四日限り二八万〇、六八九円の各一時金請求権を有することとなるが、これらを超える一時金請求部分は理由がない。

五  控訴人は本件賃金、一時金請求権のうち被控訴人の附帯控訴による請求拡張部分につき消滅時効を援用するところ、本件記録によれば、被控訴人は昭和四四年六月二三日本訴を提起した当初から控訴人に対し、昭和四二年四月から昭和四四年四月までの未払賃金及び一時金の支払を求めるとともに、被控訴人が控訴人に対し労働契約上の権利を有する地位にあることの確認を訴求していたことが明らかである。被控訴人は、賃金及び一時金の請求権は基本たる労働契約上の地位から派生する具体的請求権の一であるから、基本たる労働契約上の地位確認の訴が提起されれば、賃金、一時金の消滅時効は中断する、と主張するが、基本たる労働契約上の地位の確認請求は、もとより個々の具体的な賃金、一時金請求権について裁判所の審理、判断を求めるものではないから、これに右各請求権についての訴の提起に準ずる時効中断の効力を認めることはできない。しかし、個々の賃金、一時金請求権は労働者の労働契約上の地位から生ずる最も重要な具体的請求権であるから、右地位の確認請求には当然に個々の賃金、一時金請求権についての権利主張が表示されているものと解すべく、右確認請求訴訟の係属中は右権利主張も継続してなされているものということができる。そうすると、右地位確認の訴の提起は裁判上の催告の効力を有し、その効力は訴訟係属中維持されその間時効は進行しないと解するのが相当である(訴訟終結後は六月内に訴提起等強力な中断事由に訴えなければ中断の効力は生じない。)。したがつて、被控訴人の本件附帯控訴による賃金、一時金についての請求拡張部分のうち本訴提起後にかかるものは、時効によつて消滅することがないから、控訴人の時効消滅の主張は採用できない。そして、本訴提起前にかかる賃金請求権については、前認定のとおり被控訴人の右請求拡張部分の存在が認められないので、これについての時効消滅の有無の判断を省略する。控訴人はまた原判決の仮執行宣言に基づく強制執行によつて被控訴人の受領した金員を本件賃金請求から控除すべきであると主張するが、仮執行宣言に基づく強制執行としてなされた給付は上訴審においてこれを顧慮すべきものではないから、右主張も失当として採用できない。

第三結論

よつて被控訴人の本訴請求は(一)被控訴人が控訴人に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認を求め、(二)昭和四二年四月から昭和五五年一二月までの賃金合計金九七〇万七、九九八円及び別紙認容未払賃金一覧表の各月欄記載の各賃金につき同欄起算日の項記載の日から支払済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金、(三)昭和五六年一月以降毎月二五日限り一ケ月金一〇万六、三二二円の割合による賃金及びこれに対する毎月二六日から支払済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金、(四)昭和四二年七月から昭和五五年一二月までの一時金合計金四〇九万〇、二〇〇円及び昭和四四年度までは別紙請求未払一時金一覧表、昭和四五年度以降は別紙認容未払一時金一覧表の各季欄記載の各一時金につき同欄起算日の項記載の日から支払済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金、(五)昭和五六年一月以降毎年三月三一日限り年度末一時金一〇万六、三二二円及びこれに対する毎年四月一日から支払済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金、毎年七月三一日限り夏季一時金一七万五、四三一円及びこれに対する毎年八月一日から支払済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金、毎年一二月二四日限り年末一時金二八万〇、六八九円及びこれに対する毎年一二月二五日から支払済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当として棄却すべきものである。

よつてこれと異なる原判決主文第二ないし第五項を本件控訴及び附帯控訴に基づき主文第一項のとおり変更し、控訴人のその余の控訴を棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条但書を、仮執行宣言につき同法一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 瀧川叡一 加藤義則 上本公康)

原審判決の主文、事実及び理由

主文

一 原告が被告に対し労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

二 被告は、原告に対し、金三、三六二、三六六円及び別紙認容未払賃金一覧表の各月欄記載の各金員につき、同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

三 被告は、原告に対し、金一、四三一、七七二円及び別紙請求未払賃金一覧表(二)の各季欄記載の各金員につき同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

四 被告は、原告に対し、昭和四九年五月以降毎月二五日限り一ケ月金六一、四九八円の割合による金員及びこれに対する毎月二六日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

五 原告のその余の請求を棄却する。

六 訴訟費用は被告の負担とする。

七 この判決は第二、第三、第四項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者双方の申立

一 原告(請求の趣旨)

(一) 主文第一、第三、第六項と同旨。

(二) 被告は原告に対し金三、四四〇、二九七円及び別紙請求未払賃金一覧表(一)の各月欄記載の各金員につき、同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

(三) 被告は原告に対し、昭和四九年五月以降毎月二五日限り一ケ月金六三、四四五円の割合による金員及びこれに対する毎月二六日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

(四) 仮執行の宣言。

二 被告

(一) 原告の請求をいずれも棄却する。

(二) 訴訟費用は原告の負担とする。

第二請求の原因

一 被告学校法人足立学園(以下「被告学園」という。)は、肩書地において稲沢女子短期大学、稲沢女子高等学校、稲沢女子短期大学附属幼稚園を経営する学校法人である。

二 原告は、被告学園の経営する稲沢女子高等学校に教諭として勤務していたが、被告学園は、昭和四三年三月二二日、原告に対し、被告学園教職員服務規定三〇条により解雇する旨の意思表示(以下「本件解雇」という。)をなした。

三 本件解雇は以下の事由により労組法七条一号に該当する不当労働行為であり無効である。

(一) 原告には、右教職員服務規定三〇条に該当するような事由は存しない。

(二) 原告は、愛知私学単一労働組合の結成準備会の段階よりその活動をし、被告学園においてC分会を結成し分会長として学園の民主化、労働条件の改善、研究教育に関して分会員の先頭に立つて被告学園との団体交渉を要求するなどの活動をし、昭和四一年五月の右組合の第二回定期大会において本部執行委員に選出され賃金対策部長として、昭和四二年六月の第三回定期大会においても引続き本部執行委員となり、不当弾圧対策部長として積極的に組合活動を展開してきた。

(三) これに対し、被告学園は、昭和四〇年一一月「学校と考え方が合わない。」という抽象的な理由により原告に対し退職勧告を行なつたが、原告らは、昭和四一年二月右退職勧告を撤回させることに成功し、同年三月以降分会の活動をより発展させた。

即ち、同年三月の春休み期間中に、分会は合宿を行なつてそこで約四〇項目の要求案をまとめ、次いで、同月二五日には全教職員に呼びかけて希望職員会議を開き全教職員の要求としてまとめ上げ、翌二六日に原告を含む代表が被告学園長と交渉を行なつたが、学園長は「教育に自信をなくしたので学校を辞めたい。」と発言するなど教職員の右要求を押えにかかつた。しかし、その後も、分会は、教職員の自主的サークル「みんなの会」を中心に読書会や討論を進め、同年九月以降は職場新聞の発行、週一回の会合の定着化、会員の増加等着着と成果をあげていつた。

こうした中で、被告学園事務局長林恵は、昭和四一年一一月二六日、原告に対し、滝高校への転校を勧め、原告がこれを断わると「本校に不満のある先生は他に替つてもらいたい。」と言い出し、昭和四二年三月付の解雇予告をなし、昭和四二年に入るや原告の後任の教諭の採用を決定した。

これに対し、分会は、「みんなの会」の会員とともに解雇予告撤回の話合いを進めて新たに四名の教師を分会に迎え、昭和四二年三月八日には、原告が、同じく同年三月末の解雇を予告されていた北村洋一教諭とともに分会を公然化させ、被告学園に対し正式の団体交渉を申入れた。被告は、右分会公然化に対し、同月一〇日の職員朝礼で学園長が組合の教育破壊に全力を尽して闘う覚悟であるから、先生方も教育を守るために協力してもらいたい旨発言し、その後、被告学園理事足立てる子が中心となつて連日女子教諭を個別的に呼出して「教育を破壊するつもりなのか、共産党に入つたのか。」と追及し、林事務局長が分会員及び「みんなの会」会員が集まる前記北村教諭宅に見張りを立てその集合を妨害し、PTA役員まで乗出して原告と北村教諭に組合の脱退工作を行なうなど、分会の活動への不当な介入を数多く行なつた。

(四) 右原告に対する解雇予告は結局撤回されたが、昭和四二年四月以降、被告学園は、原告を級担任、教科担任、校務分掌の一切からはずし、教師の生命ともいえる原告の教育活動を奪い、従来の職員会議、職員朝礼の名称を教科担当者会議、教科担当者朝礼と変更することにより原告の参加を拒否した。

(五) 本件解雇は、被告学園が分会の結成、その活動、及び分会の中心となつて活動した原告を好ましくないものとして原告を排除しようとしてなされたものであることは、以上のとおり明らかである。したがつて、本件解雇は不当労働行為に該り無効である。

四(一) 原告の昭和四一年度(昭和四一年四月から昭和四二年三月まで)における賃金月額は二九、六〇〇円(基本給二八、〇〇〇円、通勤手当一、六〇〇円)であつた。

(二) ところで、被告学園の給与体系は公立学校に準じていたところ、公立学校における教員の賃金に関する人事院の勧告及びその実施内容、さらには全産業労働者の賃金上昇率に関する統計資料を参酌すれば、被告学園においても高等学校の教員の賃金は毎年少なくとも一割を下らない程度の増加があり、したがつて、原告の賃金も昭和四二年度以降毎年四月に少なくとも一割を下らない上昇が認められうるはずである。

(三) ところが、右基準によれば、原告の昭和四二年度における賃金は少なくとも一割増の三二、五六〇円となるべきところ、被告学園は、原告に対し、昭和四二年四月から一一月までは二七、九八〇円(基本給二六、五〇〇円、通勤手当一、四八〇円)しか支払わず、同年一二月から昭和四二年三月までは基本給である二六、五〇〇円しか支払わなかつた。これは、前記被告学園の原告に対する不当労働行為と軌を一にするもので、被告学園は右三二、五六〇円との各差額を支払うべき義務がある。

また、被告学園においては、夏季及び年末各一時金(夏季、基本給の一・五ケ月分、年末同二・四ケ月分)及び三月に年度末一時金(基本給の一ケ月分)を各支給しているが、昭和四二年度は、原告に対し右いずれの一時金も支給しなかつた。これも、被告学園の前記不当労働行為意思の結果であつて、被告学園は右各一時金を原告に対し支払うべき義務がある。

(四) 被告学園は、本件解雇以降、原告の教員としての地位を否定し、その就労を拒否するばかりか賃金の支払もなさない。

昭和四三年四月以降の原告の賃金も、前記同様、毎年四月に少なくとも一割ずつ上昇すべきであり、また、右各一時金も右上昇した基本給をもとに原告に支払われるべきである。

被告学園における賃金は、前月二一日から当月二〇日までの分につき毎月二五日に支払われ、また夏季一時金は七月末、年末一時金は一二月二二、三日頃、年度末一時金は三月末までに遅くとも支払われる。

(五) 以上の、昭和四二年度の被告学園の差別意思に基づく未払賃金及び未払一時金及び本件解雇以降昭和四九年四月までの未払賃金及び昭和四八年度までの未払一時金は別紙未払賃金一覧表(一)、(二)のとおりである。

五 よつて、原告は、被告に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認を求めるとともに、昭和四二年四月以降昭和四九年四月までの各未払賃金の合計三、四四〇、二九七円及び別紙請求未払賃金一覧表(一)の各月欄記載の各金員につき同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、昭和四二年度以降昭和四八年度までの各未払一時金の合計一、四三一、七七二円及び別紙請求未払賃金一覧表(二)の各季欄記載の各金員につき同覧起算日の項記載の日より支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、昭和四九年五月以降の賃金及びこれに対する各支払日の翌日より支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める。

第三請求の原因に対する認否

一 請求の原因一項・二項の事実は認める。

二 同三項の主張は争う。

(一) 同項(一)の事実は否認する。

(二) 同項(二)の事実は不知。但し、被告学園が、原告が愛知私学単一労働組合に関係していることを知つたのは昭和四二年三月七日である。

(三) 同項(三)の事実中、昭和四一年二月二五日に希望職員会議のあつたこと、翌二六日に原告を含む代表が被告学園長に要求書を提出したこと、昭和四二年三月八日に団体交渉の申入れがあつたことは認めるがその余は不知ないし否認する。

(四) 同項(四)の事実中、被告学園が昭和四二年四月以降原告を級担任、教科担任、校務分掌の一切からはずし、従来の職員会議、職員朝礼の名称を教科担当者会議、教科担当者朝礼と変更したことは認めるが、その余は否認する。

三(一) 同四項(一)の事実は認める。但し、基本給の内訳は俸給二五、〇〇〇円、学級担任手当二、〇〇〇円、諸手当一、〇〇〇円である。

(二) 同項(二)の事実中、被告学園の給与体系が公立学校に準じており、被告学園においても、高等学校の教育の賃金(基本給部分)が毎年少なくとも一割を下らない程度の増加があることを認め、その余は否認する。

(三) 同項(三)の事実中、被告学園が原告に対し昭和四二年四月から一一月まで二七、九八〇円、同年一二月から昭和四二年三月まで二六、五〇〇円の賃金を支払つたこと、原告主張のとおりの各一時金を支給していること、昭和四二年度には原告に右各一時金を支給しなかつたことは認めるが、各差額、各一時金の支払義務については争う。

原告の昭和四二年度四月以降の賃金は、同月以降原告が学級担任でなくなつたことにより、俸給二五、〇〇〇円、諸手当一、〇〇〇円、昇給分五〇〇円の合計が基本給として二六、五〇〇円、また通勤手当については従前は一律に一、六〇〇円支給してきたが、昭和四二年度からは実費支給とし、原告の場合は本人の申出により一、四八〇円となつたものである。同年一二月以降は、原告が登校しなくなつたので通勤手当は支給されなかつた。

なお、年度末一時金は被告学園が支給するものではなく稲沢女子高等学校PTAから主としてクラブ活動を指導した先生に支給されるもので、昭和四三年以降は基本給の一ケ月分であるが、昭和四一、四二各年度は基本給の〇・五ケ月分しか支給されなかつた。また、夏季及び年末一時金を昭和四二年度に原告に支給しなかつたのは、原告が同年度は学級担任も教科担任もなく講師なみの取扱いとなつたため、支給対象外となつたからである。

(四) 同四項の事実中、被告学園が本件解雇以降原告の地位を否定し、その就労を拒否し、賃金の支払もなしていないこと、被告学園における賃金支払方法、各一時金支給時期は認め、その余は争う。

第四被告の主張

一 (本件解雇に至る経緯)

(一) 原告は、昭和三八年四月一日より被告学園に勤務し、同年度は取りあげて云う程の問題はなかつたが、昭和三九年度になつてから、与えられた仕事を忠実に実行せず上長から注意をされると素直に聞き入れることなく、こと毎に反抗的態度に出て他の教職員とも融和しないきらいがあつたので、昭和四〇年二月被告学園校長が原告に対し転任方勧告したことがあるがその際原告は「就任早々で被告学園のことがよく解らなかつた、抵抗を感じたこともあつて迷惑をかけたが、今後は心を改めて他の教職員とも融和し被告学園の教育方針に従い一生懸命努力するからこのまま被告学園に勤務させて貰い度い。」旨願つたので被告学園は原告の右言を信じ原告を引き続き被告学園に勤務させることを承認した。

それまでには次のようなことがあつた。

(1) 原告は昭和三九年四月より校務分掌として私学共済組合の事務を担当することとなり同組合の加入手続・扶養家族の変更手続等を取扱うこととなつたが熊沢教諭・小塚教諭の加入手続を放置し、同年秋頃からは被告学園の事務職員において右事務を処理せざるをえないこととなつた。

(2) 原告は、昭和三九年四月より被告学園の教職員を以て組織する親睦団体である温交会の会計を担当したが、会計処理がずさんの上出納記録簿を紛失し、城崎温泉へ旅行した際の収支報告は記録簿紛失を理由に放置され、残つていると予想された四万円位の現金の所在も判明しないまま今日に至つている。

(3) 原告は、昭和三九年四月より職員会議の議長団(議長・副議長・書記各一名)の一人として書記の事務をとることとなつたが、職員会議の議事録を作成せず、再三請求するもこれを実行しなかつた。

(4) 被告学園においては、学級担任の教諭は毎年度末三月二五日までに担任した生徒の生活指導要録を記載し学校長に提出することになつているが、原告は、昭和三九年度は高校一年C組の学級担任であるのにこれを提出せず、教務課の再三の請求により昭和四〇年四月末頃になつて漸くこれを提出したが、右記載が不正確で整理不十分なものであつた。生徒健康診断票についても同様であつた。

(5) 原告は上長が右の不始末その他につき注意を与えると「やかましく云わなくてもやる時にはやる。」とか「多忙でやれない。」とか「大したことではない。」とか事毎に反抗的態度に出て、素直に上長の注意や指導を受け入れるところがなかつた。

(二) 原告は、昭和四〇年度(昭和四〇年四月一日より昭和四一年三月末日まで)は高校一年C組、昭和四一年度(昭和四一年四月一日より昭和四二年三月末日まで)は高校三年C組の学級担任であり、文章実務その他の商業科目並びに英語を担当し、週二〇時間位の授業をもつていたが、前記(一)冒頭記載のような確約に反し勤務態度は容易に改善されなかつた。

(1) 原告は、昭和四〇年七月一六日付学内新聞「まこと」(年二回発行)に「揺れるベトナム」と題し所信を発表したが、その中に「大きな危険をはらんだベトナム戦争を解決するには解放戦線及び北ベトナム政府が声明しているようにまずアメリカ軍が南ベトナムから徹退することが必要ではないだろうか。」という内容の記事があり、厳正中立の立場にあるべき教師として学内新聞に一方に偏した所信を発表することは妥当でないという物議をかもした。

(2) 同年七月、二見ケ浦に臨海修練の監督として行つた際、原告は合図用の「呼リン」を紛失したが、その時原告はこれを探そうともせず紛失後にとつた原告の無責任な態度に関係者一同は驚かされた。

(3) 昭和四二年夏になつて判明したことではあるが、原告は、昭和四一年二月頃学校長に無断で二クラス位の生徒から学校・先生・授業に関する不平不満等についてアンケートをとつたが、その内容はともかく、被告学園においては職員会議ないし学校長の許可なく学園内に於てアンケート等をとることは禁止されている(職員服務規定三条一〇号・三三条六号)のにこれに違反し、かかる行為を秘密に行なつたことに対し、強い批判があつた。

(4) 昭和四二年四月になつて判明したことではあるが、原告は学校図書室より正規の手続を経ることなく書物二冊を持出し、昭和四一年二月頃から他の教諭が紛失に気づいていた点から推察すると、その頃原告が無断持出したこととなるが、生徒ならまだしもその範たるべき教諭が長期間にわたり公の物を私物化したこと、及び、書物貸出し手続に違反したことは強く非難さるべきことである。

(5) 昭和四〇年度の生活指導要録の提出も昭和三九年度同様遅怠しその記載もずさんであつた。

(6) 原告は、学校に出ていても自分の授業をせず生徒に自習をさせることが昭和四一年度になつてから格別多く、学校長から注意を与え原告自らも自習が多すぎると反省していたようではあるが、容易に改まらず、例えば、高校三年C組文章実務は週に三回であるが、原告が出校していて自習となつているのは昭和四一年度に一一回もありその他欠席による自習が三回もある。その間原告が学園内において何をしていたか、或いは、無断外出していたか今日に至るも明らかでない。

(7) 原告は、昭和四一年度生徒募集の担当学校として古知野・富田・葉栗・浅井・大口及び布袋の六中学校を割り当てられ、同年五月中に一度は各校を訪問するよう上長より命ぜられた。他の教諭は割当校をその頃訪問したのに原告は再三の依頼にも耳を傾けず、「行く必要がない。」とか云つて反抗的態度を示し、漸く同年九月下旬になつて訪問するありさまで、上長の命に従わなかつた。

(8) 昭和四一年一〇月学校長の叙勲に際し、職員一同お祝いの品を送ることとなり一人当り五〇〇円を募金したところ、原告はその必要なしと非協力的態度を示していたが、心がとがめたか昭和四二年になつてから幹事に募金を納めそのため幹事が迷惑した。

(三) ところで、被告学園は昭和二年創設された稲沢女子高等学校を母体とするものであつて、学制改革により女子高校が創設され、女子短期大学を昭和二六年に併設、その後稲沢幼稚園が同三一年に、萩原幼稚園が同四二年に設置され、愛知県下における有数の女子綜合学園として発展し、宗教的情操を身につけた健康で真面目な真の女性を育成するのが被告学園の理想であつて、学校長始め全職員の実践によつて推進され、その躾の厳正、その健康な校風は広く父兄の信頼を得ており、昭和四四年度当時で女子短期大学六八〇名、女子高校七六〇名・稲沢幼稚園四四六名、萩原幼稚園二三〇名の女子教育に当つている。

(四) 原告は、被告学園が原告に対し昭和四一年一一月二六日に昭和四二年三月付解雇の予告をしたと主張するが、かかる事実はない。もつとも、昭和四一年一二月末頃被告学園林事務局長が原告に「昭和四二年度より滝高校へ転校するという話を聞いているが本当か。」と聞いたことはある。これに対し、原告は「そういう話もあつたが転校する気はない。」ということであつた。事務局長がかかる質問を発したのは次の事由による。昭和四一年四月二〇日校長会の休憩時間中に、滝高校の丹羽校長より被告学園の事務局長に対し、昭和四二年度より原告を割愛してくれないかとの申出があり、被告学園の事務局長としては、原告の義兄が滝高校に奉職しており原告の通勤にも便利なので、原告に転校の話があるのかと思い、原告の承諾があれば被告学園としては差しつかえない旨答えておいたところ、同年一二月上旬頃滝高校において、昭和四二年度から原告が滝高校にて勤務する旨の発表があつたことを周知したので、被告学園としても、もし原告に転校の意思があるならば後任の問題等もあるので、原告の真意を確かめたものである。

(五) 原告が転校の意思を否定したものの、被告学園としては、原告は被告学園の校風に合わず、他の教諭とも融和しないので、折角滝高校の要請もあること故、この機会に転校して貰つた方が原告本人にも両校にも幸せであると考え、昭和四二年に入つてから転校方説得をしたことはあるが、原告本人の意に反しこれを強行する意思はなかつた。

しかるに、原告はこれを退職勧告、不当解雇だと問題をすり替え、たまたま退職方を申出ていた北村洋一教諭(体育担当)に留任するよう説得し、原告本人の件と北村教諭の件を一に結びつけ被告学園は両教諭を不当解雇しようとしていると同僚教師に呼びかけ、これに同調する数名の教諭と共に先輩教師の私宅を訪問して留任方を懇請し、生徒に対しても機会ある毎に被告学園の不当性を宣伝し、問題を紛糾させるに至つたのである。

そして、昭和四二年三月七日の卒業式の日、高校一、二年の生徒約百名は卒業式後解散せず、学校長等に対し両教諭の不当解雇撤回を迫り、他の教師等の説得により漸く解散するという事件があつたが、同日原告は、数名の教師に対し、北村教諭と二人で愛知私学単一労働組合稲沢女子分会を結成したから今後被告学園に対し団体交渉を申込む旨漏らした。果して、翌八日被告学園に対し愛知私学単一労働組合委員長生田長朗名義による団体交渉の申入れがあり、被告学園は原告がかかる労働組合に関係していたことを始めて知つたのである。

(六) 昭和四二年三月一九日、中部日本新聞の朝刊には「二教諭解雇でもめる稲沢女子高・署名運動を開始」の見だしで被告学園と両教諭との問題が報道され(右報道記事は正確なものではないが)、被告学園稲沢女子高等学校PTAの知るところとなり、同月二一日PTA役員会が開催され、両教諭の言動は被告学園の教諭として好ましくないのでPTA役員等において退職勧告をすることを決め、両教諭と接渉を重ねた結果、北村教諭との間は円満解決したが、原告との間には話合いがつかなかつたので、PTAは、同月二八日再び役員会を開き、かかる考えの原告には直接生徒の指導に当つてもらつては困るとの決議をなし、同日その旨学校側に通告してきたので、被告学園女子高等学校としても、右決議に従い、昭和四二年度より原告の学級担任・教科担任・校務分掌の一切をはずすこととしたのである。

(七) その間原告は、

(1) 昭和四二年三月七日から同月一八日までの間、前後六回に亘り、愛知私学単一労働組合稲沢女子分会ニユースというパンフレツトを被告学園内において無断でかつ被告学園の警告を無視して教職員等に配布し、もつて服務規定三条一〇号、三三条六号に違反する行為を重ね、

(2) 原告に同調する教諭等をして、その頃、前後十数回に亘り、同月二〇日、被告学園に提出する予定のもとに生徒或いは父兄より不当解雇反対の署名をとらせ、もつて教師の本分を忘れ教師にあるまじき行為を重ねてきた。

(八) 被告学園は、前記PTA役員会の決議(右決議は同年四月一日開催のPTA役員会において再確認された)もあつたので、同年四月三日付内容証明郵便を以て原告に対し正式に退職方勧告した。

その理由は、

<イ> 昭和四二年三月二〇日付分会ニユース第八号に記載されているところは、被告学園の建学の精神及び学校長を誹謗するものであり、宗教の何たるかその本質を理解しない者の言であり、原告は被告学園の建学の精神に反する考えをもつているものであること。

<ロ> 前記(七)(1)及び(2)のこと、

<ハ> 被告学園稲沢女子高等学校PTAも原告のような考えの先生には直接生徒の指導に当つてもらつては困ると要望していること、

<ニ> 被告学園の建学の精神は仏教精神により情操教育を施し、質実有為な真人を育成することで、原告も就任の時以来このことを熟知しているにもかかわらず公然とこれに反対することは、被告学園の教諭として不適任であること、

<ホ> 前記(二)(7)のごとく原告には被告学園の方針に協力する誠意のないことである。

(九) 右退職勧告にもかかわらず、原告はこれに応ずることなく、昭和四二年度も被告学園に勤務していたが、原告には反省の色更になく他の教職員との溝は深まるばかりで、原告を解任すべしとの意見が被告学園の一致したところとなつたので、原告に対し、しばしば口頭を以て退職方勧告してきたが、被告学園は、昭和四三年三月一八日付内容証明郵便を以て従来の理由のほかに「昭和四三年度はクラスも生徒も激減し原告にやつて貰うことはない。」という理由も付加して再び正式に退職勧告した。

しかるに、原告はこれにも応ずる気配がなかつたので、同年三月二〇日、原告の件を被告学園理事会に諮つたところ、被告学園教職員服務規定三〇条七号の解任決議がなされたので、被告学園は同月二二日付内容証明郵便を以て同条七号に則り原告を解任したのである。

なお、五名の理事のうち、理事長足立{門言}励、理事足立てる子はともに学内理事で原告の行動はその都度熟知しており、理事新谷栄は昭和四二年度中に数回原告に会つて話合つており、また林事務局長らからその都度原告の件については聞いていたので、残る土川元夫、山田市三郎の両理事のみが、右理事会の席で判断の資料を提供され始めて詳細な事情を知ることになつたものである。

二 (本件解雇の理由)

(一) 原告に対する右解任決議の理由となつたのは、前記昭和四二年四月三日付内容証明郵便記載の事実が主たるものであるが、それを要約すると次のとおりである。

(1) 被告学園の建学の精神は、仏教精神により情操教育を施し、質実有為な真人を育成することにあり、原告も就任以来これを熟知しているにもかかわらず、前記昭和四二年三月二〇日付分会ニユース第八号の記載のごとく、これに公然と反対したのであり、原告が被告学園の教諭として不適任であるのは明らかである。

(2) 被告学園稲沢女子高等学校PTAの要望はいささか行き過ぎの点があるとはいえ、PTAが原告のような考えの先生には直接生徒の指導に当つてもらつては困ると要望している以上、被告学園としてもこの要望を軽視することができない。

(3) 前記一項(七)(1)及び(2)の各行為。

(4) 前記一項(二)(7)のごとき、被告学園に対する非協力的な態度、及びこれを注意された際の反抗的態度。

(二) 右が、本件解雇の直接の理由であるが、このほか、前記一項(一)の(2)、(4)、同項(二)の(5)、(6)、同項(四)、(五)、(六)の各事実、及び以下に述べる各事実が右解任決議をなすに至つた理事会において逐一報告され、本件解雇の判断の資料に供された。

(1) 原告は、昭和四二年四月四日付稲沢女子高等学校PTA会長丹菊桂名義の高校二、三年生父兄宛文書を秘かに盗み、同月五日付愛知県私学単一労働組合稲沢女子分会のパンフレツトを作成し、学校長の承認を得ないで各父兄宛に学園内で生徒に配布した。

(2) 原告は、昭和四二年四月二一日朝、「新任の先生方へ」というパンフレツトを第一職員室の新任の教諭数名の机の中に秘かに置いて配布した。原告はこの件により同日戒告処分になつている。

(3) 原告は、同月二〇日と二五日の二回にわたり東運動場の草とり、小石とり等その整備を命ぜられたにもかかわらず、これを行わず、注意を与えると反抗的態度に出た。

(4) 原告は、同年四月と五月には第一職員室の校長の席に来て校長に対し学級担任・教科担任をはずしたことを批難し、時には大声をあげ教師の校長に対する言動とは思われない抗議をなし、他の教職員の制止にも耳を傾けず、ほとんど連日これを繰り返し、校長の職務の遂行を妨害した。

(5) 原告は、昭和四二年度は遅刻二五回、早退一二回、無断外出数回、欠席五回(但し九月一日より一〇月七日まで長期欠勤を除く。)と出勤常ならず、再三注意しても反省の色がなかつたので、昭和四三年二月一九日戒告処分にしたが、同月二三日までに提出すべき始末書も提出せず、再度同年三月四日までに提出するよう勧告したがこれにも応じなかつた。

(6) 原告は、昭和四二年一二月二日、名鉄国府宮駅において、被告学園生徒に対し学校長の許可なく文書を配付したので、被告学園は同月六日原告を戒告処分にした。

(7) 原告は、右のほか度重なる注意にもかかわらず、愛知私学単一労働組合稲沢女子分会なるパンフレツトを学校長の許可なく配付した。

(三) 原告の右(二)の(1)ないし(7)の各所為及び前記一項(二)(7)の行為は服務規定三四条の懲戒解雇事由

二号 正当な理由なく遅刻早退の多いこと

三号 正当な理由なく学校長の服務命令に従わない時

七号 しばしば戒告を受けたにもかかわらず改悛の見込がないとき

の各号にも該当し、理事会においては、懲戒解雇相当との意見もあつたが、同規定三〇条七号の「本学園に対して又は教職員として不都合の行為があつて理事会において解任すべきものと決定したとき」との規定により予告解雇にて処理したものである。

(四) 本件解雇後、昭和四二年三月一六日に、生徒約一〇〇名が下校時刻経過後も教室内に滞留して集会を開いていた事実、及び、これに原告が何らかの形で関与或いは示唆を与えていた事実が判明した。

即ち、同日午後四時すぎ、生徒約一〇〇名が被告学園三階の二年生の教室内に集まり集会を開いていた。これを察知した小塚教諭は、右集会が無届であり校則違反であるとの理由で直ちに参加者らに解散を命じた。この集会は、未だ被告学園が原告に対し解雇或いは解雇予告すらしていない時期ではあつたが、その雰囲気からすれば、原告の不当解雇撤回の要求をするにつき、何らかの対策をたてることを目的として開かれたもののようであつた。

ところで、これも後日判明したことであるが、当日被告学園宛に、一父兄から、生徒が署名運動をしているから、注意してほしい旨の電話がかかつて来ていたこと、原告は、右に先立ち、昭和四二年三月一〇日には解雇予告の撤回を要求する旨のアジビラを多数撒いていたこと、小塚教諭は先の三月七日の生徒の集合について足立てる子教諭から、その模様を聞いていたこと、被告学園の生徒らが、三月七日の集会といい、三月一六日の集会といい、その後三月二一日に明らかとなつた署名運動といい、かかる積極的な活動に出るようなことは、到底考えられないこと、原告は、授業中に、再々学校の方針を誹謗することがあり、また、そのために、学校長の反感をかつて、やめなければならなくなつた旨の発言をなし、署名活動についても話題としていたことを総合すれば、三月一六日の右集会は、生徒の自発的意思によるものではなく、原告の何らかの形での関与或いは示唆により開かれたものと考えられる。

右事実は、後日判明したこととはいえ、本件解雇以前に既に客観的に存在していた事実であるから、本件解雇の理由として追加する。

(五)原告は本件解雇は組合活動の中心人物である原告を被告学園より排除しようとする目的でなされた不当労働行為であると主張するが、被告学園は昭和四二年三月七日までは原告が組合に関係していたかどうかも知らなかつたのであり、その後においても、まもなく円満解決した北村教諭以外被告学園の教職員にして組合に関係していた者はないから、「組合活動の中心人物」などという表現は適切でない。

本件解雇は組合活動とはまつたく無関係のこれまで詳述してきた事由によるものである。

原告が組合活動をしかも中心人物として活動してきたと自負することは、原告の勝手であるが、被告学園は原告の言動を組合活動とは受けとめていない。原告は、その言動よりみて、被告学園の教育方針に反する考えの持ち主で被告学園の教諭として不適任な人物であると判断したのである。原告が組合活動をしたこと、或いは、愛知私学単一労働組合の組合員であることは本件解雇とは何ら関係のないことである。

第五被告の主張に対する認否及びこれに対する原告の反論

一 (被告の主張一項について)

(一)(1) 同項(一)(1)の事実中、原告が昭和三九年四月より校務分掌として私学共済組合の事務を担当することになつたことは認め、その余は争う。

右事務は、本来事務職員が行なうべきもので、原告はその旨被告学園に要求していた。当時、原告は教科、担任の事務が多忙で右共済組合の事務を担当すること自体無理な状況であつた。

(2) 同項(一)(2)の事実については、昭和三九年一二月に城崎温泉への旅行が行なわれ、原告が記録簿の所在を忘れたため会計報告が遅れたが、後日記録簿が見つかり文書で報告した。その余は争う。

(3) 同項(一)(3)の事実中、昭和三九年四月より原告が職員会議の議長団に選ばれたことは認め、その余は争う。

書記の事務は、議長、副議長、書記が交替でやることになつており、原告が右事務を行なつた時は、メモ用紙に会議の記録をとり、後に議事録に写すようにしていたが、その際、議事録に写すのが遅れることはあつた。

(4) 同項(一)(4)の事実中、原告において生活指導要録、生徒健康診断票の提出が遅れたことは認め、その余は争う。

当時、この二帳簿については教師間において次年度担任に適宜引渡す状態であつた。原告は提出が遅れたのでクラス別に分けて次年度の担任に渡した。また、記載については必要な記入は正確に行なつた。

(5) 同項(一)(5)の事実は否認する。

原告は「多忙でやれないので少し待つてもらいたい。」という意味のことを言つたことはあるが、事毎に反抗的態度をとつたりしたことはなかつた。

(二)(1) 同項(二)(1)の事実中、原告が「まこと」に被告主張のような記事を発表したことは認め、その余は争う。

被告学園においては、学校新聞は学園長の許可を得て印刷発行されており、原告は学園長より寄稿者の名前を付すよう言われて右記事に名前を付したものである。ベトナム問題は、当然生徒たちにも関心が持たれるべき問題で、教育基本法の「真理と平和を希求する人間の育成を期する」という基本的精神の要求するところであり、一方に編したとの非難は当らない。

(2) 同項(二)(2)は争う。

帰校後、呼リンがないことが分り、原告が備品の係であつたので探した結果見つからなかつたが、後になつて発見された。

(3) 同項(二)(3)は争う。

当時、分会の方針により、前記「みんなの会」で生徒指導について研究、討論が行なわれていたが、生徒からのアンケートはその一環である。右アンケートは教育上の必要から行なつたもので、これを許可制にすることは教師の教育権に対する侵害であり許されない。

(4) 同項(二)(4)は争う。

原告は、就任当初教科主任より学校図書を二、三冊預り使用していたが、このことは他教科でも行なわれており、無断持出し、私物化という非難はあたらない。

(5) 同項(二)(5)の事実は否認する。

(6) 同項(二)(6)の事実中原告が自分の担当クラスの三年C組で自習が多かつたことは認める。

昭和四一年度は、四教科週二二時間の授業を持ち、ほとんど全員が就職する商業科の担任を持ち就職業務も多忙であつて、就職業務を進めるため、生徒に課題を与えて自習させざるをえないこともあつた。

(7) 同項(二)(7)は争う。

被告学園の中学校教師を招いて酒を与えたりする手段を選ばない生徒募集対策は教育的、社会的に許されず、原告はこれに反対したのである。

(8) 同項(二)(8)の事実中、昭和四一年一〇月学校長の叙勲が行なわれたことは認め、その余は否認する。

(三) (同項(三)の主張について)

被告学園は、学習よりも掃除としつけを極端に重んじ、これに私物検査、厳しい懲罰等が相まつて、生徒たちは教育の名のもとに非人間的に扱われ、自覚的な規律を身につけることができない状態であつた。また、教員も低賃金、教育設備不足に加えて、職員会議で自由な意見を述べる状態ではなく、その権利をまつたく無視されていた。このような状態の中で、分会は学校の民主化、教師の生活擁護、教育の正常化のために活動してきたのである。

(四) 同項(四)、(五)、(六)はすべて争う。

(五)(1) 同項(七)(1)の事実中、原告が分会ニユースを配布したことは認めるが、これは正当な組合活動であり何ら非難に値しない。

(2) 同項(七)(2)の事実中、生徒たちが署名活動をしたことは認めるが、これは生徒たちが自発的に行なつたものである。

(六) 同項(八)の事実中被告主張の分会ニユースを発行したことは認めるが、その余は争う。

二(1) 被告の主張二項(一)の原告が建学の精神に反していたとの点は争う。

原告は、商業簿記関係の教師として被告学園に採用されたものである。したがつて、仏教的情操教育を中心とする建学の精神の面から教師として不適格かどうかを判断することは、特段の事情のない限り、極めて不合理である。原告は、採用されるに際して、その信じる宗教の有無等について何の条件を示されていない。建学の精神にもとづく私立学校の独自性が、一定の範囲において尊重されるべきことを否定するものではない。しかし、その具体的な現われ方のなかで、私学経営者の立場からみて建学の精神に反する「考え」を持つ者は解雇できるというようなことは許さるべくもない。したがつて、被告が一切の批判を許さぬとの一方的立場から、原告の「考え」を理由の一にして解雇するのは労基法三条に違反する。

(2) 被告の主張二項(二)(1)は争う。

原告は右文書の重大性を知り、事務職員が棄てた印刷原紙を拾つたものにすぎない。

(3) 同項(二)(2)は争う。

原告は、パンフレツトを新任教諭の机の上或いは机の上の本にはさんで置いたにすぎない。

(4) 同項(二)(3)の事実中、原告が林事務局長から東運動場の草とり、小石とりの作業を命ぜられたことは認める。

原告は雨が降つていることを理由に右作業を断わつた。右作業が教師のなすべき仕事でないのはいうまでもない。

(5) 同項(二)(4)の事実中、原告が教師としての一切の仕事を奪われたことに抗議したことは認める。

(6) 同項(二)(5)は争う。

被告学園の教師の出勤時刻は午前八時二〇分までであつたが、昭和四二年度より原告のみ午前八時までの出勤、さらに出勤簿への出勤時刻の記入を命ぜられた。また、原告は同年八月、九月中は骨髄炎のため入院、通院し欠勤等が多くなつた。昼休み中の通院については足立修教諭から他出届を出すよう注意されたので、その後これに従つた。

(7) 同項(二)(6)、(7)の事実は認めるが、これらはいずれも正当な組合活動であつて、被告学園の行なつた不当な介入こそ許されるべきではない。

三 (被告学園服務規定について)

被告学園服務規定は、分会の活動が活発化していた昭和四二年三月に急拠作成されたもので、これは右規定の作成が組合活動の抑圧と原告の解雇を目的としたものであることを物語つている。

右規定は、労基法の就業規則にあたるものであるが、その作成の過程で一般教職員からの意見を聴取せず、反組合の立場にあつた大柳、玉井両教諭の意見のみ付して労働基準局に届けられ、同月中頃に職員室の柱に吊された。しかも、同規定は昭和四一年一二月一日より施行とされているが、これは原告に対する解雇予告が行なわれた時期と合致し、同規定の目的を明確に示している。したがつて、同規定を根拠とする本件解雇は無効である。

第六原告の服務規定に関する主張に対する被告の反論

原告は被告の服務規定作成が組合活動の抑圧と原告解雇の準備として行われたものであるというがこの主張は争う。

一 服務規定の一宮労働基準監督署の正式受付は昭和四二年三月一六日となつており、従業員代表の意見書の日付も前同日となつているが、被告は昭和四〇年夏頃から服務規定の作成に着手し、昭和四一年一一月頃完成したので、従業員たる教職員の代表者の意見書を添付して基準監督署に届出たところ、不備その他訂正個所を指摘され整備に手間どり、正式届出は昭和四二年三月一六日になつたのであつて施行期日をあえて昭和四一年一二月一日に遡及させたものではない。施行期日が右のとおりになつていることは昭和四一年一一月中に届出たことを証しているともいいうる。

二 仮に、原告主張のとおり、被告の服務規定の届出が昭和四二年三月一六日でその施行日が昭和四一年一二月一日からと遡及されていたとしても、右服務規定の作成届出自体の効力がないということにはならない。少なくとも、昭和四二年三月一六日以降は適法に施行されているものであり、原告の本件解雇は昭和四三年三月二二日付内容証明郵便にて服務規定三〇条七号に則り行なわれたものであるから、同規定を根拠とする解雇が無効であるとの主張は採用しえない。同規定作成の意図がどのようなものであつたにせよ正式に作成届出のあつた以上同日以降はその意図とは関係なく服務規定は有効に施行され適用されるものである。

第七証拠関係<省略>

理由

一 請求の原因一項・二項の事実は当事者間に争いがない。

二 成立に争いのない甲第一・第二号証、同第一三・第一四・第一五号証、同第一八号証、同第二一・第二二号証、乙第七号証、同第一一・第一二号証、同第一六ないし第二〇号証、同第二二・第二三号証、同第二五ないし第三三号証、同第三八号証、同第四二号証の各記載、書込み部分については原告本人尋問の結果により成立が認められその余の部分については成立に争いのない甲第二三号証の記載、証人新谷栄の証言及びこれにより成立を認めうる乙第六号証、同第四〇号証の各記載、証人林恵の証言(第一回・第二回)及びこれにより成立を認めうる乙第三号証、同第八号証、同第一〇号証の一、同第一三号証、同第一五号証、同第二一号証、同第二四号証の各記載、証人丹菊桂の証言及びこれにより成立を認めうる乙第一四号証の記載、証人後藤正一の証言及びこれにより成立を認めうる乙第一〇号証の二の記載、原告本人尋問の結果及びこれにより成立を認めうる甲第三ないし第一二号証、同第一九・第二〇号証、同第二四・第二五号証の各記載、証人熊澤信夫、同日比野忍、同生田長朗、同永井清明、同大柳枝盛、同玉井康之、同小塚義人、同水野俊法、同足立てる子の各証言、弁論の全趣旨及びこれにより成立を認めうる乙第三七号証、同第四一号証、同第四三号証の各記載を総合すれば次の事実が認められ、右認定に反する前掲証人林恵、同丹菊桂、同大柳枝盛、同玉井康之、同小塚義人、同水野俊法、同足立てる子、原告本人の各供述部分は措信できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(一) (本件解雇に至る経緯)

(1) 原告は、昭和三七年三月長崎大学経済学部を卒業し、一年間民間会社に勤めた後、昭和三八年四月より被告学園経営の稲沢女子高等学校の教諭として勤務するようになつた。被告学園へは、原告の義兄で滝高校教諭である岩田勝を通じ被告学園の習字の教師をしていた橋本翠川の紹介により就職するに至つたものであるが、同年三月被告学園において被告学園理事長で学校長でもある足立{門言}励(以下「学校長」という。)と面談した際、同人から給与等について説明を受けたが、被告学園の特色、ことに宗教行事などについては格別の説明を受けなかつた。

(2) 原告は、被告学園に雇傭された直後から労働組合の必要性を感じていたが、前記岩田を通じて私学単一労働組合の準備会の存在を知り、昭和三八年一〇月二日右準備会である愛知県私立学校教職員組合協議会に個人加入し、同協議会が、昭和三九年一一月一五日、愛知私学単一労働組合(以下「単一労組」という。)として結成された後、昭和四一年、四二年と連続して同単一労組本部執行委員に選出された。

そして、原告は、被告学園内においても、一部の同僚に右単一労組への加入を勧誘し、昭和三八年暮れには田畑修、今枝某(女子)の両名が同単一労組に加入するに至り、ここに稲沢女子高等学校に同単一労組C分会が発足した。同分会は、被告学園には秘密裡のうちにその活動を進めた。しかし、翌昭和三九年に右両名が退職して、再び、稲沢女子高等学校における単一労組の組合員は原告一名になつたが、その後熊澤信夫、北村洋一、松本某が単一労組に加入し、昭和四〇年六月頃再びC分会が確立した。また、この頃から原告らを中心に分会員を含めて、各参加者の下宿などで、自主的に学園内の様々の問題や生徒に対する教育、生活面の指導等について学習、研究、討議を進めることも行なわれ、昭和四一年からは「みんなの会」という名称で機関紙を発行し、さらに同年九月からは職場新聞「いね」を発行し、「みんなの会」の会合も週一回もつようになり、参加者も増加するなど、より積極的なサークル活動として発展し、同会での活動を通じて単一労組に加入する者も漸次増加していつた。

こうした分会員や「みんなの会」会員との連帯を通じて被告学園内における具体的な問題への取組みも行なわれ、原告も、職員会議において、昭和四〇年六月頃前記北村が運動部の対外試合のためスクール・バスを運転手の承諾を得て使用したのに対して被告学園事務局長林恵(以下「林事務局長」という。)が被告学園に無断で使用したとして憤激した事件に関し、北村のとつた方法は非難に値しないと主張したり、同年一一月には、従来文化祭の期間中生徒と女子教員が宿直していたのを廃止すべきだと主張し、これが契機となつてその年から男子教員が宿直にあたり、同時にそれまでは被告学園から食事しか支給されていなかつたのを一定の手当が支給される取扱いに変更されるに至り、或いは、生徒が毎月一〇〇円ずつ納入する生徒会費の半額を職員の研修費として使用するなど被告学園の生徒会費の使用方法の不明朗な点につきその説明を求めるなどした。さらに、被告学園においては、従来から学校長、事務局長及びその一族の教員を除いた教員で、職員会議では話せない或いは話すのが適当でない事項について自主的に話合う希望職員会議という集まりが時おりもたれることがあり、ここで話された事項については、比較的古参の教員である大柳枝盛、玉井康之の両名から適宜必要に応じ学校長に報告されていたが、原告が被告学園に勤務するようになつてからは一度もたれただけでその後は開かれていなかつた。そこで、原告らは、昭和四一年三月の春休み期間に入つてから分会員(当時六、七名)を中心に「みんなの会」を北村の下宿に集まつて集中的にもち、右大柳に一回相談のため参加してもらつたりして被告学園に対する要望をまとめあげた。そして、「みんなの会」会員の中でも古参の教員で被告学園運営委員会の構成員でもある大久保晴史から大柳らに働きかけて、同人を中心に同年三月二五日希望職員会議を開催することに成功した。同会議の席上、原告ら「みんなの会」会員がまとめあげた要望書が案として提出され、これを希望職員会議一同の要望として採択し、翌二六日原告らは大柳、玉井とともに学校長に右要望書を手交しに赴いた。その際、学校長は「いろいろ要望をいうなら辞めたい。」と発言したが、同日の運営委員会でも右要望書について一応の回答がなされ、同月二八日の特別職員会議で被告学園から要望書に沿つて改善すべきは改善するとの回答がなされた。しかしながら、その後右回答どおりに実現されたものはガリ版、ゴム印等の備品が一部揃えられたにすぎなかつた。(三月二五日に希望職員会議が開かれ、翌二六日に要望書が被告学園に提出されたことは当事者間に争いがない。)

(3) 被告学園は、学校長が僧侶ということもあつて、宗教的行事、宗教教育を重んじ、その建学の精神は「宗教的情操豊かな女性の育成」という点にあり、宗教の授業を週二時間行ない、また毎朝生徒朝礼で合掌して法句経を読経することになつている。生徒に対する生活指導では、服装検査、持物検査を実施することにより不必要な物品を学園内に持込ませず、髪やスカートの長さに至るまで細かく指導していた。生徒は、週刊誌、雑誌の携帯を許されず、単行本を学園内に持込むのも許可制であり、また、登下校時に寄り道して他の場所に立寄るには被告学園に届出ることが必要とされ、私服による外出も許されず、他校の男子生徒との会話も禁止されるなど厳しい躾教育を受けていた。懲罰も登校謹慎、自宅謹慎(いわゆる停学)などしばしば行なわれていた。

昭和四〇年一月二九日、職員会議において翌三〇日に生徒の一斉持物検査を行なうことが決議されたが、翌三〇日、生徒を運動場に出してその間に生徒の鞄を検査する方法で右持物検査が実施され、生徒の一部がこれに抗議する意味で欠席し、このことが新聞で報じられるという事件が発生した。その後、持物検査の際には生徒側からも室長らが立会う取扱いとなつた。

生徒は、被告学園に授業料、生徒会費などを納入しなければならないが、被告学園は、授業料未納の生徒の氏名を貼り出したり、また、生徒会費の一部を職員の研修費にあてたりした。スクール・バスの使用についても生徒から費用が徴収され或いはPTAから教員の親睦団体である温交会に寄付を受けたりすることがあつた。

被告学園は、学校長の妻足立てる子が副学校長、学校長の子林恵が事務局長というように、学園の中枢部をその一族で占め、教員の中にも学校長の家族や教え子などが多く含まれており、学校長と右のような関係にない教員は、毎年四、五名ほど公立学校へ転校したり、退職したりしていく実情であつた。教員の数は専任でない者も含めて約四〇名であつたが、生徒数が一、〇〇〇名程であつたので必ずしも十分な教員が配置されていたとはいえず、教員免許のない科目を担当せざるをえないような教員もあり、ほとんどの教員の一週間の授業の持時間数は二二、三時間であり、公立学校などに比べて相当多く、事務局の方も十分な人員が配置されていないため、一般には事務職員が行なうべき事務まで教員が校務分掌上担当させられることもあり、教員は、休日に出勤しても手当の補償がないなど教員の労働条件は相当劣悪なものであつた。しかも、学校長は、かなり性格的に短気な面を持ちあわせており、昭和四一年女子の教員が突然理由もなく水を浴せられるという出来事が起つたこともあり、また、林事務局長や小塚義人教諭は地方政治に非常に熱心で、自由民主党公認や保守系無所属で市会議員に立候補したことがあり、昭和三八年に林事務局長が立候補した際、職員朝礼で同人を応援しようという話が出たりすることもあつた。

原告らは、以上のような被告学園の教育方針、組織、教員の労働条件などに種々の問題点があると考え、「みんなの会」などで積極的に討議を進めたものである。なお、昭和四一年二月頃、生徒会指導をしていた先生の発案により「みんなの会」で生徒に対するアンケートを実施することを決め、生徒会を通じて一九七名の生徒を対象にアンケートを募り、その回収率は一〇〇パーセントであつたが、その結果は、生徒会等の活動をより自主的かつ積極的に行なうことを期待し、風紀関係については厳しすぎるとし、また設備、特に運動設備の充実を希望する意見が大勢であつた。

(4) 昭和四〇年一一月、原告は、学校長から「学校と考え方が合わない。」との簡単な理由で他校へ替つてもらいたい旨勧告を受けたが、その後原告自身が学校長に引続き被告学園に勤めさせてほしい旨要請したり、前記北村らと相談したりしているうち、翌昭和四一年二月学校長から「今後とも一生懸命やつてもらいたい。」と言われ、右勧告は撤回された。

同年四月二〇日、一宮で開かれた公私立高等学校の校長会に学校長の代理で出席した林事務局長は、同席の滝高校の丹羽校長から、原告を譲つてもらえないかとの打診を受け、本人の希望であればけつこうである旨答えた。その後、同年一二月初旬、前記大柳は、一宮商工会議所で、滝高校の寺沢教諭から、同校の職員会議で被告学園から一人新しく同校に赴任されるとの発表があり、その先生は九州出身の人であるとの話を聞き、かねて同校には原告の義兄が在職していることを聞いており、九州出身ということで原告が該当するところから、原告が同校に転校する話があるものと考えて、そのことを学校長に報告した。そこで、林事務局長から、原告に対して滝高校への転校の意思の有無を確かめたが、原告は「そういう話もあつたが、替る気はない。」と答えた。原告に対しては、同年六月頃、前記岩田を通じて滝高校へ替らないかとの勧誘があつたが原告はこれを断り、原告が同校に履歴書等を提出したこともなく、同校においても、同年一一月ないし一二月頃には原告の転校の問題は終止符が打たれていたものであつた。

しかし、原告が被告学園に対し滝高校へ転校する意思がないことを明確に表明してからも、林事務局長が「学園としては転校した方がよいと思う。本当に行くのだろう。」と念押ししたり、翌昭和四二年一月には学校長自らが「既にあんたの代りは考えてあるから辞めなさい。滝に替りなさい。滝がいやならほかの高校にでも行きなさい。」などと強行に転任勧告を続けた。また、大柳も、原告に対し、「学校外でやつている活動、サークルをやめなさい。そういうことをやめれば問題は解決するんだ。そのことは分かつているだろう。」と原告の「みんなの会」などの活動の中止を示唆した。

また、この頃、前記北村に対しても被告学園から来年度から生徒数が減ることを理由に転任勧告がなされていた。北村は、被告学園と前記スクール・バスの使用についてトラブルを起したことがあり、また、同人は、被告学園において専任の体育教師として勤務していたものであるが、被告学園に工事に来ていた人夫たちが校庭の半分くらいに土を盛つてしまつたので体育の授業ができないと被告学園に抗議し、林事務局長との間で口論になつたことがあり、被告学園との間には気まずい関係にあつた。

同年二月に入つても原告らに対する転任勧告は続けられた。同月一六日、原告と北村が学校長と面談した際、学校長は、原告については、校風に合わない。職員会議で決つたことを理解できていない、学校と違う考えをもつている、言動を見ても不満が多いようで建学の精神に沿つていない、今さら何を言われても考え直す余地はない等退職以外に方法はないことを示唆し、北村については、公立に替る噂を聞いている、不満があり本校に満足してもらえない、無口で協調性がない等の理由を述べたがもう一度再考してみると答えた。そこで、原告らは原告と北村に対する転任勧告の不当性を訴えるビラを有志の名で被告学園の教員に配付したり、或いは、生徒に対しても、学園内で原告と北村に対する転任勧告という問題が持ち上がつている旨説明したりした。

(5) 同年三月七日被告学園で卒業式がもたれたが、在校生約一〇〇名が教室内に留まり、副学校長足立てる子に対して建学の精神とはどういうことか、原告を何故首にするのかと詰問するなどしたが、同人らの指示に従いまもなく解散した。同日、大柳は大久保から原告と北村が私学単一労組を通して転任勧告の撤回を求める予定であることを聞かされた。翌八日、当時一〇名程いた単一労組の組合員のうち、原告と北村のみで稲沢女子分会を公然化させ、被告学園に対し単一労組委員長生田長朗名で正式に団体交渉を申入れた。一方、足立てる子は、前日の在校生の行動に不安を覚え、生徒に対して、建学の精神とは、感謝の思いで毎日暮させて頂く人生観であり、自分達は幸せに暮させて頂く人間にしたいのであり、原告らの問題は生徒とは関係がない旨説明した。

被告学園は、単一労組の団交開催申入れに対し、相談中であるなどの理由で応ぜず、生田委員長も林事務局長らに対して口頭で開催を要求していたが、被告学園は明確な回答をなさず、同月一七日学校長の名で文書をもつて生田委員長宛の回答をなしたが、そこでも労働組合とか団体交渉とかいうものは今まで研究したこともないのでよく研究して後日改めて回答する、組合規約、組合員の住所、氏名、組合の登記簿謄本、最近一年間の発行物を送付されたいとして、確答を避けた。

同月一九日、新聞紙上に「稲沢女子高等学校二教諭解雇でもめる。生徒は署名運動を開始した。」という内容の記事が掲載された。これを見た同校PTA会長丹菊桂は、被告学園と相談のうえ緊急常任委員会を開くことにした。翌二〇日、丹菊会長は、原告と面談し、原告に対して「組合を作つたのは非常に残念だ。生徒を扇動しているのではないか。」と話し、原告がこれに対し翌二一日の役員会に出席させてほしい旨申入れたが明確に回答しなかつた。翌二一日の常任委員会は、委員一五、六名が出席して開催されたが、冒頭、林事務局長が原告と北村には授業を受けさせたくないとする一父兄の手紙、一父兄が持参した学校長、北村、原告の各発言を列記し原告と北村の両名を辞めさせないでほしい、PTAも協力してほしいという内容で生徒一同の名を付してある文書、稲沢女子分会のビラ等を各委員に回覧し、これまでの経過、原告の組合活動等について発言した。その際、委員の一人後藤正一が、右生徒一同の名を付してある文書と筆跡は異なるが同一内容の文書を自分の娘も持つていたとして同会に提出した。その後、林事務局長は退席して、原告らの出席は認められないまま討議が続き、原告が生徒の署名活動を扇動した張本人である、原告をして教壇に立たせることは適当でない旨の結論が出され、丹菊会長が口頭で被告学園に右結論を伝達したが、当日北村の取扱いについては話題にならなかつた。同月二四日も常任委員会が開かれ、原告と北村の出席が認められた。席上、原告らは分会の要求の内容等を委員に説明し、一部の委員はこれに理解を示したが、丹菊会長は他二名の委員と別室へ原告らを案内し、原告らに対して「組合をやめなさい。そしたら、私たちの責任できちつと今の状況を巧く解決してやる。」と組合脱退の説得を試みた。一方、被告学園は、丹菊会長から二一日の常任委員会での結論を伝えられた翌日の二二日に、理事会も開かないまま原告を教壇に立たせない意思を固めていた。そして、同月二九日原告に対し、「一、貴殿には本学園より御退職を願つた方が宜しいとお勧め致してまいつたのであります。二、担任並びに授業のないのは父兄の意見及び学校の方針等からであります。」と文書で伝えた。(三月八日に団体交渉の申入れがあつたことは当事者間に争いがない。)

(6) 一方、被告学園は、原告と北村以外の教員らに対し以下のような措置をとつた。

まず、同月一〇日、職員朝礼の場で、学校長が私学単一労組ができ学校を破壊するような動きが出ているが、そういうふうにならないように協力してほしい旨発言した。また、足立てる子が女子の教員を集めて、涙を流しながら学校を破壊するような行動をとつてもらつては困る旨説得したり、或いは、職員全体に対して、「私は協力一致、自己の責任を重んじ、誠意をもつて職務に精励し、学園の建学の精神の高揚に努め、理事長、学校長の教育方針を遵守し、外部の団体に無断で加入しないことを誓います。」という内容の誓約書を提出させようとしたりした。

(7) 同年四月三日、被告学園は被告の主張一項(八)の<イ>ないし<ホ>の理由を付した内容証明郵便をもつて、原告に対し正式に退職を勧告した。しかし、原告がこれに応じないまま、同月以降、原告は級担任、教科担任、校務分掌の一切からはずされ、講師が主に入つている第二職員室に移され、また、従来の職員会議、職員朝礼が教科担当者会議、教科担当者朝礼と変更されたことにより、これらの会議、朝礼にも出席を許されなくなつた。そして、最初のうちは、被告学園より、教科の勉強など一日何をやつていたかの報告書を出すよう指示されていたが、その後草むしりや運動場の整備などの雑役を命ぜられるようになつた。また、原告の出勤簿のみ廊下に出され、加えて、教職員の出勤時刻は後記「教職員服務規定」上は午前八時となつているが、右教科担当者朝礼が午前八時二五分から始まることになつている関係で午前八時二〇分頃までに出勤すればよい慣行となつていたが、原告に対してのみ、他の教職員は右規定上の終業時刻である午後四時三〇分を過ぎても勤務を続けているのに原告は午後四時三〇分で帰つてしまうのであるから、出勤時刻も右規定どおり午前八時を遵守するよう命ぜられた。原告は、以上のような被告学園の措置を、人権侵害であるとして名古屋法務局一宮支局へ申告し、同支局は、同年七月一六日、原告の出勤簿のみを廊下に出したこと、原告の被告学園運動会参観を拒否したこと等は原告に対する差別的取扱いであるとして人権意識喚起のため被告学園に説示した。また、原告は三男が誕生したので健康保険の扶養家族の手続を申請しようとしたが、被告学園はこれに応ぜず、学校長の子足立修は「あんたなんかはうちの職員と思つていないから、そんなことはできない。」という有様であつた。

一方、北村は、被告学園が同人の推薦者を通じて来名させた同人の父親らから組合脱退の説得を受け、悩んだ末に脱退を決意し、これを前提にして、後任の体育の教員が主に体育の授業をもち、同人は週六、七時間授業を受けもつことになつたが、結局同年七月から、岐阜大学に内地留学することになり、翌昭和四三年三月、被告学園を自然退職した。(同年四月以降、原告が級担任、教科担任、校務分掌の一切からはずされ、従来の職員会議、職員朝礼が教科担当者会議、教科担当者朝礼と変更されたことは当事者間に争いがない。)

(8) 原告に対する被告学園の措置は、原告の抗議等にもかかわらず継続され、被告学園は、昭和四三年三月一八日再び内容証明郵便をもつて原告に対し退職を勧告し、次いで、同月二〇日理事会を開催して「教職員服務規定三〇条七号により原告を解任する」旨決議し、同月二二日本件解雇に及んだ。

(二) (被告主張の本件解雇の理由ないし事情)

(1) 原告は昭和三九年四月以降、校務分掌上私学共済組合の事務を担当することになつたが、同事務は学校組織上事務局の統轄のもとにあつて、その事務の内容は、各種給付事務、標準給与の報告、加入手続等であり量も相当多く、原告は、大久保を通じて運営委員会の席で私学共済組合の事務は本来事務局でなすべき事務である旨主張してもらつたことがあり、翌昭和四〇年からは事務職員が同事務を担当するようになつた。原告は、前任者の田畑修教諭からも被告学園からも事務内容について詳しい説明を受けておらず、また、帳簿類も十分整備されていなかつたため、多忙であることも併せ加わつて、十分理解しながら右事務を遂行することができなかつた。しかしながら、原告が右事務遂行中、その怠慢により被告学園や被告学園職員に迷惑をかけたとして被告学園から注意を受けるようなことはなかつた。(原告が、昭和三九年四月以降校務分掌上私学共済組合の事務を担当することになつたことは当事者間に争いがない。)

(2) 原告は、同年四月より被告学園稲沢女子高等学校の学校長以下全教職員の親睦団体である温交会の幹事を担当することになつた。原告のほかに山田弘雄教諭らも幹事であつたが、温交会の会計は、毎月の会費のほかに年一回の旅行の積立金があり、会費は毎月給料から差引かれ、積立金は原告が徴収していたが、現金は学校長が保管しており、また、原告が管理していたのは右旅行積立金の帳簿のみであつた。同年一二月城崎温泉への旅行会が催され、原告がその会計担当にあたつた。参加者の交通費、宿泊費は予め旅行業者に支払われ、その余の費用については原告が学校長から預つていた現金で支払つた。そして翌四〇年二月頃、右旅行の会計報告を原告がなしたが、その後原告は旅行積立金の帳簿の在場所を失念し、後任者である前記小塚に対し引継ぎができず、同人から催促され、その後ようやく帳簿を発見して同年六月頃同人に引継いだ。その際、同人から、原告が学校長から預つた金額と実際に使われた金との額が合わないという指摘を受け、原告は、学校長に対しもし不足の金があれば自分の給料から差引いてもらつてもよい旨弁明した。

(3) 原告は、昭和三九年四月以降、校務分掌上前記熊澤、大久保とともに職員会議の議長団に選ばれた。同会議の議事録は期間を区切つて右三名が交替で記載していたが、原告はメモ用紙にメモをしたまま、それを正式の議事録に写し替えることをしないで、約半年間の議事録を空白にした。しかし、当時、このことについて被告学園から催促や注意を受けたことはなかつた。(原告が、同年四月以降職員会議の議長団に選ばれたことは当事者間に争いがない。)

(4) 原告は、昭和三九年度、商業科一年C組の担任であり、学級担任は毎年三月二五日までに生徒指導要録、生徒健康診断票を提出することになつていたが、四月になつて新学期が始まつてからようやく提出した。生徒指導要録の記載は、通知表が一〇段階評価であるのに対して五段階評価となつていたところ、原告は最初これに気づかず一〇段階評価のまま記載していたが、途中で右誤りに気づき自らすべて訂正したうえ提出した。原告のほかにも、少数ではあるが生徒指導要録の提出が遅れる教員もあつた。提出された生徒指導要録等は教務でとりまとめてクラス別に分けた後、新しい担任に渡すことになつており、被告学園が記載内容を逐一チエツクするということはなく、原告の場合も次期担任の生徒指導に支障を与えるほど提出が遅れたわけではなく、したがつて、この点につき被告学園から注意を受けるようなことはなかつた。翌昭和四〇年度についても、原告は生徒指導要録の提出が若干遅れたが、次期担任から苦情を受けたり、被告学園から注意を受けたりしたことはなかつた。(原告の、昭和三九年度の生徒指導要録、生徒健康診断票の提出が遅れたことは当事者間に争いがない。)

(5) 原告は、昭和四〇年七月一六日付学内新聞「まこと」に「揺れるベトナム」と題する記事を執筆し、その中でベトナム戦争の経過を述べたうえ、「大きな危険をはらんだベトナム戦争を解決するには解放戦線及び北ベトナム政府が声明しているようにまずアメリカ軍が南ベトナムから徹退することが必要ではないだろうか。」という形で締めくくつた。当時、校務分掌上学内新聞発行の担当者は牧野という女子の教諭であつたが、牧野は最初右記事に執筆者名が入つていなかつたところ、学校長から氏名を入れるよう指示を受けて、原告にその旨要請して氏名を付したうえ右記事を掲載した。原告は、右記事につき被告学園から注意されたことはなかつたが、前記小塚から「おまえ社会党のようなことを書いておるじやないか。」と言われたことがあつた。(原告が右記事を「まこと」に掲載したことは当事者間に争いがない。)

(6) 同年七月、原告は、被告学園の臨海訓練で二見ケ浦に監督者として随行した際、合図用の呼リンを紛失した。その後、原告は格別呼リンを探そうともしなかつたが、まもなく呼リンは発見された。この件で原告が被告学園から注意を受けることはなかつた。

(7) 被告学園では、学校図書室からの図書貸出しには、正規の手続として貸出簿に記載することになつているが、昭和四二年四月被告学園が図書室より紛失していた図書二冊を原告が使用していたことを発見した。被告学園では、司書を置かず教員を図書係にあてていたが、図書係の教員は授業をもつていて常に貸出し手続にあたることができないため、図書の貸出しを受けようとする者は図書係の教員に断わりを入れて貸出しを受け、貸出簿には記載しないでいることもしばしば行なわれる実情であつた。

(8) 昭和四一年度の原告の担任は商業科三年C組であり、原告は自己の担当クラスも含めて週二二時間の授業を受持つていたが、同年度の原告の授業には自習が一三、四回もあり、そのうち原告の欠席によるものは二、三回で、残りは原告が出校しながら自習にしたものであつた。原告が担任する三年C組では特に自習が多く、原告自身がホームルーム日誌の中で右クラスの文書実務の時間に自習が多いことを反省するとの記載をしたこともあつた。商業科は就職する生徒が多く、就職指導のため自己の担任のクラスの授業を自習にしたり、他のクラスとの教科の進展を調整するため自習にしたり、或いは、試験の前などに自習にすることもあつたが、試験の前などを除いてはほぼ生徒に一定の課題を与えたうえ自習にしていた。自習が多いことについては、職員会議などで一般的に自習を少なくするよう注意を喚起されることはあつても、原告が名指しで注意されることはなかつた。(原告が三年C組で自習が多かつたことは当事者間に争いがない。)

(9) 被告学園では、生徒募集や入学した生徒についての連絡のため中学校の教員を被告学園に招いたり、被告学園の教員が手土産を持参のうえ中学校を訪問することが毎年行なわれており、昭和四一年度は原告に古知野中学校など六校が割当てられ、同年五月中学校の教員を被告学園に招くため、その連絡と挨拶を兼ねて各中学校を訪問するよう被告学園から指示があつたにもかかわらず、原告はこれを実行しなかつた。原告は、多忙を理由に或いは行く必要がないなどの理由で右指示に従わなかつたものである。私学においては一般に生徒募集の必要から中学校教員に品物を贈つたり酒食を与えての招待をしたりする例が多く被告学園も例外ではなかつた。このことに関して、後に私学協会から自粛するよう要請が行なわれたこともあるほどで、原告がいう行く必要がないとの意味は、結局教員が中学校教員の接待をする必要などないということであつた。しかしながら、原告は同年九月の中学校訪問は指示どおりに行ない、また、五月の中学校教員招待についても、原告が事前に訪問しなかつたため特に支障を生じるようなことはなかつた。この件で、原告が特に被告学園から注意を受けるようなことはなかつたが、原告に対する転任勧告等が問題になつていた昭和四二年三月二九日、被告学園は、理事長の名をもつて内容証明郵便で、原告に対し、右訪問を果さなかつたことを注意した。

(10) 昭和四一年一〇月、学校長の叙勲に際し、被告学園の一部の職員が発起人となつてお祝いの品を送るため一人あたり五〇〇円の募金を開始した。原告は右募金に協力する意思はなかつたが、他の教員がすべて募金に参加したので、最後になつて原告自身も募金に参加した。(昭和四一年一〇月に学校長の叙勲があつたことは当事者間に争いがない。)

(11) 原告は、昭和四二年三月七日以降、単一労組稲沢女子分会ニユースというパンフレツトを、被告学園内で許可を受けることなく、また、被告学園の再三の注意にもかかわらず、教員らに対して配布し続けた。同年一二月二日には、名鉄国府宮駅において、被告学園生徒に対し文書を配布したので、被告学園は同月六日原告を戒告処分に付した。(以上の事実は当事者間に争いがない。)同年三月二〇日付稲沢女子分会ニユース第八号は、「学校の教育方針が教師に対する生徒達の不信を作つている」と題したうえ、被告学園の教育方針に対し、躾教育ということで理不尽な処罰を加えたりしているのは封建的であると批判し、建学の精神にもあるように「信じあうこと」即ち教師と生徒の間の信頼が教育を支えるものであるのに、生徒達は教師をあまり信頼しておらず、その原因は被告学園の教育方針にあるとの内容のものであつた。同日付稲沢女子分会ニユース第七号は「学園側こそ建学の精神を守れ」と題したうえ被告学園の運営の様々な不明朗な点が、建学の精神、即ち「正明和信」ということばに示された信じあうことを基礎として常に明るく和やかに生活し生きていく人間を育成するという理念を踏みにじつていると、被告学園の運営方法を批判していた。

単一労組の「建学の精神」ないし「私学の独自性」というものに対する認識は、現実の「建学の精神」というものは憲法、教育基本法に照らして評価に耐えうるものは少なく、空しい封建道徳の一面的な強調として、厳しく批判されなければならないものも多く、教育現場では形骸化しているのが実態であり、もともと創設者や設置者個人の思想にすぎないものを教育目標として掲げること自体が企業教育権主義とでもいうべきドグマであつて奨励されるべきことではないが、各学校の生徒、父母、教職員らによつて歴史的に形成された「校風」や「伝統」というものは、これとは別の次元のものとして現実的な意味をもつのであり、これは私学に限らず公立学校でも成立しうるもので、それをもつて「私学の独自性」の根拠とすることはできないというものである。

(12) 昭和四二年四月四日、原告は第二職員室で事務職員が印刷していた前記丹菊名義の父兄宛文書の内容が、原告が学校長、被告学園を誹謗し、生徒を扇動し、稲沢市議会を共産党員らしい者といつしよに傍聴したが、このような先生には教壇に立つてもらつては困るので、このことを確認し署名して下さいというものであることに気づき、その重大さから右事務職員が捨てた原紙を秘かに拾得して、右内容を稲沢女子分会ニユースに掲載した。

(13) 同月二一日、原告は「新任の先生方へ」というパンフレツトを第一職員室の新任の教諭数名の机の上ないし机の中に秘かに置いて配布し、同日被告学園から戒告処分を受けた。

(14) 原告は、同月二〇日と二五日に、東運動場の草とり、小石とり等その整備を命ぜられたが、これに従わなかつた。雨が降つている日に同様のことを命ぜられ、原告がこれを断わると、林事務局長が憤慨するということもあつた。(二〇日、二五日に原告が右の命令を受けたことは当事者間に争いがない。)

(15) 原告は、学級担任、教科担任をはずされた後、しばしば第一職員室に来て学校長に対し、被告学園の右措置をやめるよう抗議した。時には、「なぜ俺に授業を持たせん。」などと語気を荒げ、執拗に抗議することもあり、学校長が授業に赴こうとしても抗議を続けることもあつた。(原告が、被告学園の措置に対し抗議したことは当事者間に争いがない。)

(16) 原告は、昭和四二年度(昭和四二年四月から翌昭和四三年三月まで)、昭和四二年九月・一〇月の骨随炎で入院した期間を除き、遅刻二〇数回、早退一二回、欠席五回と出勤状況が悪かつた。遅刻は主に前記のとおり原告のみ午前八時に出勤するよう指示されたためのもので、早退は右骨髄炎の治療のため通院するためのものもあつた。被告学園は、昭和四三年二月一九日、勤務不良との理由で原告を戒告処分に付し、同時に同月二三日までに始末書を提出するよう通告したが、原告はこれに応ぜず、同月二九日再度三月四日までに始末書を提出するよう通知したが、原告はついに始末書を提出しなかつた。

(17) 昭和四二年三月一六日の放課後、生徒約一〇〇名が教室内に参集していた。これに気づいた前記小塚は、直ちに解散を命じた。同人は、生徒たちの話の内容は聞かなかつたが、生徒たちの状況、顔ぶれ、などから原告の解雇問題についての集会であると判断した。

三 (教職員服務規定について)

証人大柳枝盛の証言及びこれにより成立を認めうる乙第四号証の二・三の各記載、証人林恵の証言(第一回)及びこれにより成立を認めうる乙第三四号証の記載、官署作成部分については成立に争いがなく、その余の部分については右大柳の証言により成立を認めうる乙第四号証の一の記載、原告本人尋問の結果を総合すれば次の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

被告学園では従来からガリ版刷りの「職員服務規定」が存在していたが、文言も古く条文も不備のためその改正が検討されていた。右「職員服務規定」は教職員らに示されたことはなかつた。改正作業は、昭和四一年一一月頃完成し、職員の代表として前記大柳、玉井連名の意見書を付して一宮労働基準監督署に提出したが、右意見書に不備があり同監督署より訂正するよう指示され、結局正式に被告学園の「教職員服務規定」が同監督署に受付けられたのは昭和四二年三月一六日であり、その頃職員室にも掲示され、職員らに周知された。なお、同規定の施行期日は昭和四一年一二月一日とされている。

同規定三条は職員の遵守事項として、二号で「正当な理由なく遅刻、早退又は欠勤しないこと。」と規定し、六号で「理事長の承認なく在籍のまま他に就任し又は校内において職務外の業務を行なわないこと。」と規定し、一〇号で「文書、金銭の取扱いに留意し、学校長の承認を得ないで在学生、父兄等に文書を配布し又は金品を集めないこと。」と規定している。また三三条は、戒告又は論旨退職の事由として、六号で「理事長の許可なく学校内において文書、図画等の類を配布又は掲示し、或いは、演説をなし若しくは会合を行なつた時」、八号で「理事長の許可なく特定の団体又は個人について宣伝その他の運動をなした時」、九号で「理事長の許可なく外部の団体に加入した時」などを掲げている。本件解雇は、同規定三〇条七号の「本学園に対して、又は教職員として不都合の行為があつて理事会において解任すべきものと決定したとき」との規定による解任決議によりなされたものである。

四 (本件解雇の効力)

(一) まず、被告主張の解雇理由ないし事情について検討する。

(1) (建学の精神について)

私立学校におけるいわゆる「建学の精神」が私学の存在価値を高め、その独自性を担保するものとして一定の役割を果していることは否めない。したがつて、教員や生徒がこれを尊重しなければならないことはいうまでもないことである。しかしながら、建学の精神それ自体は極めて抽象的なものであり、それが学校の運営を通じてはじめて具体化されるものといえる。この具体化された建学の精神を否定するような行動をとることは学校運営を阻害するものとして許されないといわなければならない。しかし、建学の精神に対する考え方や建学の精神の実践方法につき批判を加えることは、それが虚偽の事実を前提としたり、学校の運営について建設的な視点を失わない限り、正当な言論活動の範囲に属するものとして許されるものというべきである。

原告が、被告学園の建学の精神の一つの実践方法となつている合掌或いは発句経読経を拒否するなどして同学園の基本方針に反する行動をとつたとする証拠はなく、また、稲沢女子分会ニユースで建学の精神をとりあげた際も、被告学園との間に認識の差があるのはともかく、虚偽の事実を前提としているとは認められず、かえつて、その全体の語調からすれば、被告学園の運営に対する批判を通して被告学園における教育の質の向上を願望する意図のもとに記されたと認められるのであつて、もとより正当な批判の域を出るものではなく、これをとらえ建学の精神に反するものとして解雇理由とすることは許されないといわなければならない。

(2) (P・T・Aの要望について)

前認定の事実からすれば、P・T・Aが原告に子弟の教育を委ねてほしくないと要望したとはいえ、その理由ないし動機となつているのは、原告の組合活動、思想傾向にあつたというほかはなく、このことを解雇理由となしえないのは明らかである。また、原告が生徒たちを扇動して署名活動をさせたということも右要望の主たる理由となつているが、常任委員会で検討された生徒が所持していた文書の内容からしても、右文書が生徒独自の判断では作成しえないものと断定することはできず、他の事情を考慮してみても原告が扇動したとのことは、単なる疑いの域を出ず、事実と断定することは困難である。原告らが、授業中に転任勧告の問題を生徒に話したことからすれば、生徒たちが自主的に署名活動を始めたとも考えられないわけではない。原告らが生徒たちに転任勧告問題を話したことは必ずしも教育活動としてふさわしいものであるとはいえないが、生徒たちには事実を事実として知らしめようとする教育理念に基づきこれを実践すること自体教師の教育現場における裁量の範囲内のものとして、このことにより教科の指導に支障を生ぜしめたりしない限りは、許されるものと解する。

また、昭和四二年三月七日及び一六日に生徒たちが集合したことにつき、原告の扇動、指示、示唆等が介在していたものとも断定できない。

(3) (パンフレツト配布)

被告学園の「教職員服務規定」は少なくとも一宮労働基準監督署に正式に受理され、職員に周知された昭和四二年三月から効力を生ずるもので、原告の稲沢女子分会ニユースなどの配布行為が同規定三条一〇号、三三条六号に一応違反することは明らかである。

しかしながら、一般的に校内での文書配布行為を禁止することは許されず、勤務時間中に配布するなどして学校の業務に支障を与えない限り、組合活動としての文書配布は正当な組合活動として右規定に抵触するか否かに関わりなく許されるといわなければならない。原告の右配布行為が勤務時間中にもなされたと認めるに足る証拠はないのであるから、これをとらえて解雇理由とすることはできない。

昭和四二年四月四日、原告が事務職員の捨てた文書を拾得した行為は、窃取というほどのものではなく、既に廃棄されたものを分会ニユースの資料として利用したものにすぎず、解雇に値する行為と評価することはできない。また、同月二一日「新任の先生方へ」というパンフレツトを新任の教員の机の中に入れた行為も、前述のとおりパンフレツト配布自体は正当な組合活動であり、配布方法が少々妥当を欠いたとしても、それを解雇理由とすることは許されないものというべきである。したがつて、右四月四日の行為のみが一応本件解雇の判断の一資料となしうるといえるにすぎない。

(4) (被告学園に対する非協力的態度)

昭和四一年五月に、原告が中学校訪問を実行しなかつたことは、たとえ原告が被告学園の方針に反対であつたとしても、それを批判することはともかく、指示に従わず実行しなかつたことについて原告にその非のあることは明らかである。しかしながら、被告学園の中学校教員に対する招待方法にも行き過ぎの点があつたこと、原告の非協力により格別支障を生じなかつたことを考慮すれば、原告の右非協力が解雇に値するほど情状の重いものであるということはできない。また、この件で、当時原告が処分或いは注意を受けたことはなく、被告学園が原告の右行為を重視していたと推認するのは困難である。

温交会幹事としての原告の態度は、いささか不注意、無責任のそしりを免れないが、これを被告学園と原告との信頼関係を損うほど重大な行為であると評価することはできない。直接本件解雇の理由とされているわけではないが、私学共済組合の事務、職員会議議事録作成の失念、呼リンの紛失、図書の貸出しについての手続の怠慢、募金に対する態度などの中には、原告にも反省すべき点のあるものも含まれているが、いずれも末梢的な場面でのことで、教育活動そのものの場におけるものではないから、被告学園の原告に対する感情を害する原因となつたであろうことは容易に想像できても、原告が被告学園の教員として「建学の精神」に反し不都合であるということを根拠づけうるものではない。

(5) (生徒指導要録、自習)

昭和三九年度、四〇年度と連続して原告の生徒指導要録生徒健康診断票の提出が遅れたことは、職務に対する忠実さに欠けるものとして非難されなければならないが、次期担任の生徒指導に支障を与えたものではないから情状は軽いというべきである。

次に、昭和四一年度、原告の授業に自習が多かつたことも、教員には生徒に対する教育方法についてある程度の裁量に委ねられている部分があるとはいえ、自習は教育の放棄に等しく、その理由はともあれ自習を避けるべき責務に反するものとして非難されなければならない。しかしながら、自習にしても生徒に課題を与えるなど工夫していたこと、就職指導のためや他クラスと進度を調整するための場合もあつたことなどを考慮すると、重大なる怠慢とまで評価できない。

(6) (転任勧告問題)

被告学園は、原告が被告学園の滝高校への転任勧告を退職勧告、不当解雇だと問題をすり替えたと主張するけれども、前認定の経過に照らせば、原告が滝高校への転任を断わつた後も被告学園は執拗に原告に対し転任を勧告し続けたのであつて、まさしく退職勧告であり、原告がこれを退職勧告、不当解雇と受けとつたのは当然であり、後記のとおり被告学園の退職勧告こそ不当であつたというべきである。

(二) (不当労働行為)

被告学園が、稲沢女子分会公然化以前から原告の組合活動を察知していたことを前認定の事実から認めることは困難である。しかしながら、原告が職員会議で学校側と対立しかねないような発言をなしてきたこと、昭和四一年三月に希望職員会議を開催し要望書を提出したことに関し原告が積極的に参加したこと、ベトナム問題について「まこと」に掲載された記事、前記のとおり中学校訪問に関する原告の非協力的態度等は被告学園の感情を害することになつたであろうことが推認でき、これらの事柄を通じて被告学園が原告を好ましくないものと考え被告学園より排除しようとし、滝高校転任の話に乗じて原告を放逐するため執拗に転任勧告を続けたものといわざるをえない。加えて、大柳は、昭和四一年三月に「みんなの会」に呼ばれたことがあり、被告学園の転任勧告が続いていた頃学校外でのサークルをやめるよう原告に要請していたのであり、被告学園も同人から原告のサークル活動を聞かされていたと推認するに難くない。

分会公然化後の、被告学園の団体交渉開催要求に対する態度、前記二(一)の(6)で認定の被告学園のとつた措置、P・T・A常任委員会での林事務局長の説明でも原告の組合活動について触れており、P・T・Aの原告を教壇に立たせてほしくないとの要望も原告の組合活動を重視したものであることは、被告学園にも容易に判断できたはずであること等を総合勘案すれば、被告学園はP・T・Aの右要望に藉口し、原告の組合加入、組合活動そのものを嫌悪し、原告の組合加入、組合活動自体が或いはそうした原告の考え方自体が「建学の精神」と相容れないものととらえ、「建学の精神」を楯にとり原告から級担任、教科担任、校務分掌分担の一切を奪い、その教育活動を不能ならしめたのであつて、被告学園の右措置は原告の正当な組合活動の故をもつてなされたもので労組法七条一号に該当する不当労働行為というべきである。

前認定の事実からすれば、被告学園の反組合的意図はあまりにも露骨であつて、組合に加入するような思想の持主は、それだけで「建学の精神」に反するととらえていたものというべきであり、このことからすれば、被告学園の原告に対する転任勧告も、原告の具体的行動が被告学園の教員としてはふさわしくないというより、具体的行動から被告学園が把握したところの原告の思想傾向そのものを嫌悪した結果、執拗に続けられたものと認めざるをえない。

右のとおり、原告は一切の教育活動を奪われたのであるが、同時に、昭和四二年四月から、被告学園が従来の職員会議、職員朝礼を教科担当者会議、教科担当者朝礼と変更して原告の参加を排除し、原告にのみ教育活動とは全く無縁な草むしり等の雑役をさせ、原告の出勤簿のみ廊下に出し、原告にのみ午前八時出勤を命じたことなどは、いずれも被告学園の前記意図と軌を一にするもので、原告に対する不利益取扱いと解するのほかはない。そうとすれば、原告が草むしり等の雑役を拒否したこと、学校長に執拗に抗議したこと、午前八時出勤と命令されたために生じた遅刻をもつて原告を非難することはできない筋合である。

被告学園の原告の組合活動に対する弾圧はその後も続き、「教職員服務規定」の中の三三条六号、八号、九号などの組合活動制限の規定と相まつて原告のパンフレツト配布等に関し逐一処分等で臨んでいたものである。しかも、被告主張の解雇理由のうち、中学校訪問等に関する非協力的態度以外は解雇理由とはなしえず、前認定のとおり右非協力的態度についても当時は原告が格別注意を受けるということはなく、分会公然化後始めてとりあげられたものであつて、右非協力的態度も前記のとおりさほど情状の重いものではなく、これが解雇の真の理由であるとは到底考えられない。その他被告学園が本件解雇の事情として主張する事実も、そのほとんどが原告には非はなく、原告に非があるものについても情状の重いものはなく、分会公然化前は特に問題としていなかつたことや、公然化後の原告に対する差別の中で差別撤廃のためやむをえず原告がなしたものであつて、被告学園が本件解雇後口実として主張しているにすぎないものというべきである。そうとすれば、原告の教育活動を奪つた措置と同一の理由で本件解雇も労組法七条一号に該当する不当労働行為であることは明白である。

(三) 右説示のように、原告に対する本件解雇は不当労働行為に該当し無効であるといわなければならない。

五 (賃金)

(一) 以上説示のとおり、本件解雇は無効であるところ、本件解雇以降被告学園が原告の地位を否定し、その就労を拒否し、賃金の支払をなしていないことは当事者間に争いがないから、原告は民法五三六条二項により本件解雇以降も被告学園に対する賃金請求権を有する。

被告学園の右態度からすれば、将来の賃金についてもその不払は確実であると考えられ、原告には将来の賃金についても予め請求をなす必要が存するというべきである。

(二) 原告の昭和四一年度の賃金月額が二九、六〇〇円であつたこと、被告学園の高校の教員の賃金の基本給部分が昭和四二年以降毎年少なくとも一割を下らない程度の増加があること、原告に対する賃金は昭和四二年四月から一一月までは二七、九八〇円、同年一二月から昭和四三年三月までは二六、五〇〇円しか支払われなかつたこと、昭和四二年度の一時金は全く支払われなかつたこと、被告学園では原告主張のとおりの各一時金がその主張のとおりの率で支払れること、被告学園における賃金支払方法、各一時金の支給時期は原告主張のとおりであることは当事者間に争いがない。

被告は、昭和四二年度の原告の賃金につき学級担任手当二、〇〇〇円が支給されなくなつたと主張するが、これは前記の被告の措置が不当労働行為である以上理由がなく、同年度の各一時金を支給しないことにつき原告が講師なみの扱いとなつたためと主張する点についても同様に理由がない。同年度から通勤手当が実費支給となり一、四八〇円となつたことは、原告自身その本人尋問の際に明らかに否定しないところであるからそのように推認され、右認定に反する証拠はないが、同年一二月以降は原告が通勤しなくなつたので右通勤手当を支給しなかつたとする被告の主張は、前掲乙第九号証の記載に明らかに反し理由がない。また、年度末一時金は、P・T・Aから主としてクラブ活動を指導した先生に支給されるとする被告の主張も、これを認めるに足りる証拠はない。

そうとすれば、原告の教育活動を奪つた被告の前記措置は不当労働行為であつて許されず、原告についても他の教員と同様、昭和四二年以降も賃金の基本給部分(通勤手当を除く)について毎年少なくとも一割の増加が認められ、昭和四二年度の賃金減額、一時金不支給は不当労働行為であるからこれらについても原告は賃金請求権を有する。昭和四一年度の原告の基本給部分が二八、〇〇〇円であつたことは当事者間に争いがないから、これを基礎に原告に対する未払賃金を算定すれば、昭和四二年四月以降昭和四九年四月までの各未払賃金は別紙認容未払賃金一覧表記載のとおりで、その合計が三、三六二、三六六円となることは計数上明らかである。また、昭和四九年五月以降は毎月六一、四九八円の賃金請求権を有する。しかし、これらを超える原告の請求部分は理由がない。なお、各一時金についての請求は、一時金の基礎に通勤手当が含まれていないからすべて理由がある。

六 (結語)

よつて、原告の本訴請求は、原告が被告に対し労働契約上の権利を有する地位にあることの確認を求め、金三、三六二、三六六円及び別紙認容未払賃金一覧表の各月欄記載の各金員につき同欄起算日の項記載の日より支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、昭和四二年度以降昭和四八年度までの各未払一時金の合計一、四三一、七七二円及び別紙請求未払賃金一覧表(二)の各季欄記載の各金員につき同覧起算日の項記載の日より支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、昭和四九年五月以降の賃金六一、四九八円及びこれに対する各支払日の翌日である毎月二六日より支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条但書を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

別紙<省略>

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